長州藩はどうしてああなってしまったのか?3つの理由

2018年8月12日


 

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長州藩

 

幕末(ばくまつ)において、ひときわ異質な光を放っている藩が長州藩(ちょうしゅうはん)です。御所(ごしょ)に大砲を打ち込んだり、率先して攘夷(じょうい)を実行して外国船を砲撃したり幕末を1クラスに例えると完全なトラブルメーカーな長州藩ですが、一体、どうして、ああなってしまったのでしょうか?ざっくりと、その理由について解説してみます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源頼朝のブレーン大江広元を祖にする長州藩

大江広元 鎌倉

 

長州藩の祖である毛利元就(もうりもとなり)の先祖は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝(みなもとのよりとも)のブレーンで朝廷に仕えていた大江広元(おおえのひろもと)の4男、大江季光(おおえすえみつ)だそうです。

 

鉄の心を持つ大江広元

 

しかし、鎌倉幕府の成立に尽力した大江氏も、季光の時代に執権(しっけん)北条氏に逆らい敗北してしまい、季光の4男の経光以外の一族がことごとく滅びます。ただ、同族の長井氏の尽力で経光は越後(えちご)安芸(あき)の守護職を安堵(あんど)されました。こうして、経光は長男には越後の所領を譲り四男の時親(ときおや)に安芸の所領を譲ります。

 

ところが時親の時代に建武(けんむ)の新政が起こり、鎌倉幕府にも後醍醐天皇(ごだいごてんのう)方にも与しなかった時親は領地を没収されてしまいました。その後、時親の曾孫(ひまご)にあたる毛利元春(もうりもとはる)が北朝方の今川貞世(いまがわさだよ)に味方して、南朝討伐に功績を挙げ、安芸の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に落ち着きました。これが、戦国毛利氏の始まりという事になります。

 

 

理由1毛利元就時代から皇室と結びついていた

中国地方を制覇する毛利元就

 

戦国初期の毛利氏は、国内の内紛と山名氏、大内氏、尼子(あまご)氏のような強力な戦国大名に挟まれた弱小大名でした。しかし毛利元就(もうりもとなり)が登場すると時勢を読んで、大内氏と尼子氏を滅ぼしていき、安芸、周防(すおう)長門(ながと)備中(びっちゅう)備後(びんご)因幡(いなば)伯耆(ほうき)出雲(いづも)隠岐(おき)石見(いわみ)山陰、中国地方、十ヵ国を領有し120万石の強大な大名に成長します。

 

さらに毛利氏は、先祖の大江広元の頃から、朝廷とのパイプがあり、元就は戦乱で凋落し即位の儀式も行えない正親町天皇(おおぎまちてんのう)の為に、銅銭二千貫文を献金して無事に即位させる事が出来ました。このように毛利氏は先祖からの繋がりで朝廷と太いパイプがありました。ですが、この事が後々の暴走の伏線になります。

 

 

理由2西軍の総大将になり幕府とパイプが築けなかった

豊臣秀吉

 

毛利元就の死後、後を継いだ孫の輝元(てるもと)羽柴秀吉(はしばひでよし)に攻められて窮地に落ちますがそこで本能寺の変(ほんのうじのへん)が勃発、秀吉は慌ただしく毛利氏と和睦して明智光秀(あけちみつひで)を討ち輝元は織田政権の後継者になった秀吉に従い領地を保障されました。

 

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

ところが秀吉が死ぬと五大老だった毛利輝元は西軍の総大将にされてしまい関ケ原の合戦に敗北、120万石あった領地は大幅に削られ周防と長門の二か国、36万石になってしまいます。その後、毛利氏は外様大名として、それなりに丁重に扱われますが、賊軍の総大将だった事もあり、薩摩の島津氏(しまづ)のように将軍家と縁組するようなチャンスは訪れませんでした。

 

幕末には、外様大名もある程度、国政に参加する機会が与えられ、薩摩、土佐、宇和島、越前のような雄藩から大名が参加して参与会議も開かれますが毛利氏はその中には加わっていません。

 

徳川家を守った篤姫

 

考えてみると参与会議に出ているのは、篤姫(あつひめ)徳川家定(とくがわいえさだ)輿入(こしい)れして徳川と縁続きの島津、譜代(ふだい)大名の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、関ケ原で東軍だった土佐の山内氏宇和島の伊達宗城(だてむねなり)は養子で幕臣旗本の家から出ています。いずれも徳川となんらかの縁続きで、長州にはないアドバンテージがありその負目(おいめ)が長州藩をして、増々朝廷に接近させたと考えられます。

 

 

ガンバレ徳川

 

 

理由3公家と直接交流する事で心理的な距離が近づいた

公家と直接交流する事で心理的な距離が近づいた

 

幕府に近づけない以上、勢い長州藩はパイプのある朝廷に傾倒(けいとう)する事になります。多くの長州藩士が京都に向かい、それまで国政に関与した事のない若い公家に尊皇攘夷思想(そんのうじょういしそう)を吹き込む事になりました。

 

それでも初期は、同藩の穏健派の長井雅樂(ながいうた)が提唱する公武合体論と親和性の高い航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を引っ提げて朝廷に接近した長州藩でしたが、さらに過激に幕府に政治改革を迫り攘夷派と見られた島津久光(しまづひさみつ)が上洛して、(ちまた)の尊王攘夷派の人気をさらうと、勢い長州藩は、より過激な即時攘夷を唱え求心力を取り戻すしかありませんでした。

 

久坂玄瑞

 

 

ここで筋金入りの倒幕派、吉田松陰(よしだしょういん)の弟子である久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作(たかすぎしんさく)が暗躍し長州藩は航海遠略策を公式に撤廃し、長井雅樂は切腹、本格的な尊皇攘夷に突っ走り始めます。この時、長州藩士は京都に押し込まれ何も知らない若い公家達に、熱心に尊皇攘夷思想を吹き込みました。これで260年ぶりに政治に目覚めた少壮の公家達は朝廷に新設された国事御用掛(こくじごようがかり)などの政庁で過激な議論を吐くようになり、穏健派の公家を抑え込みます。

京都

 

 

1863年の8月18日には、薩摩藩と会津藩(あいづはん)が組んで、長州藩を追い払う八・一八の政変を起こしますが、どこまでも長州藩に同調する攘夷派の公家、三条実美(さんじょうさねとみ)三条西季知(さんじょうにしともすえ)四条隆謌(しじょうたかうた)、、壬生基修(みぶもとおさ)東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)澤宣嘉(さわのぶよし)は外出禁止の禁を破って長州藩兵に守られて山口に落ちていきます。

 

七名もの公卿(くぎょう)が長州藩士に同調して都落ちするようなケースは他の藩では見られません。つまり長州藩士は政治的にも精神的にも若手の公家に結びついてしまい、それが明治維新まで繋がる原動力になったのです。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

このように長州藩は当初から正親町天皇に献金して即位させるなど朝廷との結びつきが強く、江戸時代以降は西軍の総大将を引き受けた事で徳川幕府との仲が悪く、薩摩のように幕府とも朝廷とも等距離という政治は出来ない状態になりました。

 

幕末78-7_山岡鉄舟

 

それが幕末に過剰な程の朝廷寄り、反幕府、尊王攘夷に長州が傾いた大きな原因になったという事は出来るかと思います。

 

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