裴松之が注をつけていなかったら『三国志演義』は生まれなかった!?

2018年8月22日


 

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書物

 

 

我々が親しむ『三国志』にまつわるゲームや漫画のほとんどは明代に編まれた小説『三国志演義』を下敷きにしています。

 

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

 

そんな小説『三国志演義』もまた、三国時代が終わってすぐの西晋時代に陳寿(ちんじゅ)によって編まれた正史『三国志』をベースにしているわけですが、おそらく陳寿の『三国志』が「そのまま」だったら、『三国志演義』が生み出されることはなかったでしょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本文と注の分量がほぼ同じ

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

 

え?なんで?頭の中に疑問符がたくさん浮かんだ人もいるでしょう。そんなあなたは一度正史『三国志』を手に取ってさらっとでもいいので目を通してみるといいでしょう。

 

おそらくあなたはあることに気づきます。「…なんかこの本、本文よりも注釈の方が多いのでは?」そう、この陳寿による正史『三国志』、実はほぼ半分もしくはそれ以上が注で構成されているのです。そして、その注には「~曰」といった調子であらゆる書物の記述が引かれています。では、この膨大な量の注は、一体誰が何のために付けたのでしょうか?

 

 

文帝、陳寿『三国志』にご不満

晋の陳寿

 

陳寿が仕えた西晋王朝も八王の乱によって弱体化した挙句、隙を見て襲い掛かってきた匈奴によって滅ぼされ、今度は南の方で東晋王朝が建ったと思ったら、ギラついた部下・劉裕(りゅうゆう)に無理矢理禅譲させられて劉氏による南朝宋が興ります。

 

実は文官タイプだった夏侯惇

 

 

そんな六朝時代は、王朝の移り変わりこそ目まぐるしかったものの、後に漢民族の誇りともなる詩文や書を愛する文化が根付いた時代でもありました。というわけで、南朝宋の文帝(ぶんてい)も読書を愛していたのですが、彼は陳寿が編んだ『三国志』を読んでそのつまらなさに絶句。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

歴史の教科書ばりに、いや、それ以上に簡素な内容の陳寿の『三国志』はおそらく先に『史記』や『漢書』を読んだであろう文帝にとってはとてつもなくつまらなく感じたことでしょう…。この『三国志』を何とかして面白くしてほしい…。そう思った文帝は歴史に明るいと専ら評判だった裴松之(はいしょうし)に『三国志』の注をつくるよう命じます。

 

かくして、文帝を喜ばせるべく、裴松之の『三国志』注執筆作業がはじまったのでした

 

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はじめての三国志メモリーズ

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とりあえず、あらゆる文献を引用

裴松之(歴史作家)

 

裴松之は『三国志』に注をつける作業にとりかかるべく、まずは三国それぞれの国にまつわる出来事が著された文献を片っ端から集めて読み漁りました。その文献はそれぞれの国の賢人たちが著した自国伝であったり、その地方独自の地方史であったり、かと思えば出所が怪しい上に内容も信用できない俗っぽい書物であったりと様々でした。

 

主観が入りまくりな裴松之

 

普通、注を付ける際にはそれらの文献を読んで正誤を判断し、正しいものを選び抜いて注に引用するものですが、裴松之は一味違う注釈者でした。ありとあらゆる文献を片っ端から引用しまくり、正誤の判断を読者にゆだねたのです。それが歴史的事実かどうかはさておき、裴松之注によって三国時代のあらゆる人物や戦にまつわる様々な伝説を一度に読み比べられるようになったということで簡略なことで有名だった陳寿『三国志』はガラリと趣を変え、読み応えのある面白い作品になったのでした。

 

 

裴松之注の意外な功績

歴史書をつくる裴松之

 

仕上がった注を受け取った文帝は、一通り読んでその面白さに感嘆。「これは後世に残る不朽の名作だ!」と裴松之の功績を褒め称えました。そんな裴松之注はやはり文帝の言葉通り後世の人々にも読み継がれ、軍談によって日銭を稼ぐ講釈師たちの格好の話のネタとなり、ついには『三国志演義』が生み出されるに至ったのでした。

 

史書の中でもつまらなかった陳寿の『三国志』を後に四大奇書と称される小説『三国志演義』のベースとなるまでに叩き上げたことだけでも十分に素晴らしい裴松之注ですが、その功績は他にもあるのです。それは、今は散逸してしまった書物も引用しているということ。今のように印刷技術が発達していなかった時代の書物は人の手で書き写されることによって複製されていました。人力ですから、当然写し間違えることもありました。

 

その間違いがそのまま書き写され、更に別の箇所が写し間違えられ、そして更に書き写され、別の箇所を映し間違え…という具合に間違いがどんどんどんどん増えていき、書物は時代が下るにつれて元の姿を失っていきました。しかし、伝わっているだけましと考えるべきでしょう。なぜならほとんどの書物は誰にも書き写されることなく、戦争やら火事やらで失われてしまっているのですから。

 

新解釈・三國志

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

消えてしまった書物は見られませんが、諦めるのは時期尚早です。散逸してしまった書物も、その書物を引用している文献を通して部分的に読むことができます。そんな大切な文献の1つとされているものこそが、裴松之の『三国志』注。裴松之注は、散逸した書物を読み解くための大切な手がかりなのです。

 

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魏のマイナー武将列伝

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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