本能寺の変ほど事件の真相について様々な説が唱えられる事件はありません。
古くは江戸時代から流行した明智光秀が織田信長に恨みを持っていた説や、
光秀の単独犯ではなく、黒幕や共謀者がいたという説として、徳川家康説、
豊臣秀吉説、朝廷説、足利義昭説、イエズス会説が存在しますし、
または、光秀の単独犯だが怨恨ではなく、革命的な合理主義者である織田信長が
天皇を廃する事を危惧しての尊皇家としての止むにやまれぬ行動だったという
明智光秀義挙説まで存在します。
しかし、本当は黒幕などおらず本能寺の変は明智光秀の単独犯だという
アレッという説もあるのです。
今回は、目からウロコな明智光秀単独犯説を紹介しましょう。
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本能寺の変の成功に必要な3つの条件
明智光秀に黒幕がいる説や、共謀者がいる説は本能寺の変が
時間的な余裕を持って実行できるクーデターという前提で話を進めています。
ですが、このような説は、実際に光秀がクーデターを成功させるに
は絶対にクリアしないとならない3つの条件がある事は無視されているのです。
その条件とは以下の3つです。
1畿内に明智光秀以外の有力武将がいない
2明智光秀に大軍が与えられている
3大殿の信長と当主の信忠が近い場所にいる
第1の条件は簡単で、畿内に光秀以外の有力武将がいた場合、
これが信長や信忠に加勢してしまう恐れがあるからです。
実際に、畿内から光秀以外の織田軍の有力武将が全て移動したのは、
織田信孝と丹羽長秀が四国征伐に赴いた1582年5月7日です。
ただ、これだけでは足りません。
条件2、信長が光秀に軍を動かすように命令を出さないと
光秀は、大軍を動かす権限がないからです。
織田信長が光秀に中国攻めを申し付けるのが1582年5月17日
本能寺の変があった6月2日まで半月しかありません。
さらに、もう一つ光秀には高いハードルがあります。
それは、織田信長ばかりでなく、織田信忠も同時に討たないといけない事です。
実は、1582年の時点で信長は家督を信忠に譲って大殿になっています。
そして、信忠は実際に武田勝頼討伐でも指揮を執る織田の当主でした。
つまり、信長を首尾よく討てても、信忠が近くにいなければ、
織田家の武将は信忠の下に集結して謀反人の光秀を討つので
意味がなくなるのです。
しかし、光秀にとって幸運な事に
織田信忠は安土城を見物した徳川家康を接待して堺に行く予定をキャンセル
信長を迎える為に京都に滞在する事になります。
この時、本能寺の変が成功する3つの条件が整ったのです。
ですが、これらの条件は奇跡的に1582年の5月17日に揃っただけで
光秀はたった半月の間にクーデター計画を練るしかありません。
とても黒幕や共謀者と綿密に計画を練る暇はないわけです。
ここを無視して、陰謀論を展開しても机上の空論にしかなりません。
光秀には共謀者も黒幕も必要ない
こうして説明すると皆さんは、協力者も黒幕もいないで光秀がクーデターを
成功させられるだろうか?と疑問に思うでしょう。
ですが、実際には共謀者や黒幕がいなくても、光秀は織田家の武将が
疑心暗鬼になり動かなければ、それだけでメリットがあるのです。
実際に、本能寺の変直後、情報が錯綜している最中は
織田家の武将たちは、羽柴秀吉を除き、誰一人動いていません。
確たる情報がない上に、それぞれが周辺に敵を抱えているので
動くに動けなかったのです。
羽柴秀吉にしても毛利家との講和が成らないか、それ以前に
信長死去の報が毛利に漏れていれば中国大がえしなどできないでしょう。
それに講和を結んで退却の途中でも、信長暗殺の報が毛利に届けば
毛利が和睦を破棄する可能性は高く、秀吉は光秀と毛利の挟み撃ちを受けます。
それを無効にしたのは驚異的な外交力と強運で毛利氏と和睦し、
独断で退却して光秀を破った秀吉の桁外れの行動力だったのです。
秀吉は光秀を上回るリスクを引き受けて、クレイジーさを発揮した為に、
光秀を討ち天下への道を開いたと言えます。
そもそも100%安全なクーデターなどありえない
後世に生きる私達は本能寺の変が成功する事を知っています。
だから、そこから逆算し、明智光秀は相当に綿密な計画を立てたに違いない
あの英雄、織田信長を討ったのだからと考えがちです。
そこに、光秀ごときが一人で織田信長を討つリスクを冒すわけがない
きっと黒幕がいたのだ、いや、共謀者がいたのだという
陰謀論が入り込む余地もあるのです。
しかし、実際には本能寺の変を成功させるチャンスは半月しかないのであり
その間に100%成功する計画を立てるのは不可能です。
光秀は信長と信忠を確実に討てるという一点に賭けたからこそ、
本能寺の変を成功させる事が出来たし、それ以外の出来事については
臨機応変にやるしかないと、目をつぶるしかなかったのです。
グズグズして中国征伐の出発を後らせれば、信長が光秀を疑うでしょうし
そうでなくても、信長や信忠のどちらかが京を離れれば、
光秀の天下のチャンスは去ってしまいます。
逆に言えば信長も光秀がそんな大胆な計画を実行するとは思いもしません。
だから、100名程度の供で本能寺で安閑としていたのです。
本能寺の変を知った信長の呟き「是非に及ばず」とは、言葉通り
「ああ、光秀めにしてやられた」だったのでしょう。
明智光秀単独犯説を主張していた勝海舟
明智光秀単独犯説を取っている人物には、あの勝海舟がいます。
海舟座談における海舟の説では本能寺の変は斎藤利三のような
内々の重臣との話し合いでその場で決まったというものでした。
光秀が寺に逗留して一族郎党で雑魚寝をしている時に、
斎藤利三に「そろそろ討とうではないか?」と話しかける。
すると利三が「ではいつやります?」と答えて
光秀は「これから討とう」となり話が決まってしまった。
それでさしもの信長も討たれてしまったのだ。
勝海舟の推測を聞くと、そんな簡単なと思ってしまうでしょうが
これは、私達が英雄というものを知らないからなのです。
海舟はそのような凡人の思考を見透かすように、さらに続けて
「並の人物なら会議、会議と言い出してグズグズし
ついには計画が漏れてしまい、事が破れてしまう
他人に頼ろうとする自体、気が餓えているもの、
その点、光秀は偉かった」と語っています。
勝海舟は幕末の風雲を生き抜き、江戸無血開城を成し遂げた人物、
そして、西郷隆盛や木戸孝允、坂本龍馬や島津斉彬のような
当時、一級の人物と交流しています。
英雄とはどういうものかを知る海舟の言葉には、
深くうなづける点があると私は思います。
戦国ライターkawausoの独り言
本能寺の変陰謀説の根底には
「そんな大それた事をして失敗したらどうするのだ?」という
小市民的な発想がどうしても透けて見えます。
明智光秀は、織田政権で地道にキャリアを積んできたのだから、
それを一瞬でフイにするような本能寺の変を単独でやるわけがない。
必ず共謀者がいる、イヤ黒幕がいてバックアップを約束したのだ
それが何らかの理由で破棄され、光秀に全ての責任が被せられた
真犯人は別にいるに違いない!!
責任を負いたくないリスクは取りたくない、安心が欲しい
こんな現代人の思考だとクーデターの背後に安全を感じられない
本能寺の変など不安でたまらないのでしょう。
しかし明智光秀は、明日の命も知れない戦国に生きる武将です。
無数の敗者の死の上に生きる勝ち組の彼には、
「成功すれば天下人、失敗すれば討ち死にするだけ」の二者択一は、
無数に潜り抜けて来た珍しくもない事だったのです。
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