【潼関の戦い】どうすれば馬超は曹操に勝てたの?

2018年9月19日


 

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馬超

 

西暦211年の潼関(どうかん)の戦いは、曹操(そうそう)が敗北していれば苦労して成し遂げた涼州の平定が全てご破算になるシビアな戦いでした。一般には曹操の目線から語られる事が多い潼関の戦いですが、逆に、馬超(ばちょう)はどのようにすれば、曹操に勝てたのでしょうか?

 

北方謙三 ハードボイルドな馬超

 

有名だけど以外に知られていない潼関の戦いについて分かりやすく解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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潼関勝利要件1 曹操に黄河を渡らせない

潼関勝利要件1 曹操に黄河を渡らせないの地図

 

馬超や韓遂(かんすい)にとっての勝利条件は黄河以西を領土として認めさせる事です。その上で一番大事なのは、曹操を潼関に封じ込めて黄河を渡河させない事そもそも、黄河の西には馮翊(ひょうよく)のように郡レベルで関中連合軍に屈していない曹操サイドの都市もあり、渡河させてしまえばメリットはありません。

 

三国志の武器 壕橋 馬超

 

実は馬超は曹操に決して渡河させず補給を脅かせば、二十日と持たずに曹操は退却すると見抜いていました。一度、引き返してしまえば、関中の軍閥は、さらに暴れまわる事が出来これに呼応して従う兵力もさらに増えて鎮圧はより困難になったでしょう。

 

陳羣の指摘に戸惑う曹操

 

この馬超のプランを聞いた曹操は顔色を変えて戦慄し馬騰(ばとう)(せがれ)を殺さなければ、わしは墓の中で安眠できぬ」と必ず馬超を殺すと決意しています。しかし、馬超のプランは韓遂に反対され実行されませんでした。韓遂は渡河させて、騎兵の機動力で曹操軍の補給を寸断すれば、曹操は引き上げると考えていたようです。ところが渡河した曹操は、黄河に沿って南下する甬道を築いて騎兵の突撃を無効化し補給を安定させてしまいます。結局は、黄河を渡した時点で馬超は勝機を逃がしていたのです。

 

 

 

潼関勝利要件2 一つに固まらず各地に散らばる

潼関勝利要件2 一つに固まらず各地に散らばるの地図

 

仮に曹操に渡河を許しても、戦争を長期化させれば状況の変化で曹操が引き上げないといけない事件が起きる可能性は高い状態でした。そこで、曹操が渡河した場合には、馬超と韓遂は関中の軍閥を解散させそれぞれの拠点に戻って持久戦に転じる方法があります。

 

馬超と韓遂

 

ところが馬超にも韓遂にも臨機応変(りんきおうへん)の策がなく、曹操が潼関に大軍を終結させた事から、自分達も兵力を集結させます。彼らはここから散らばるという事はせず、結果、一網打尽(いちもうだじん)にされたのです。

 

曹操

 

武帝記には、潼関に関中軍閥の部隊が到着する度に曹操が喜んだという逸話があり、後に部下が「どうして、敵が増えた事を喜んだのですか?」と問うと

 

「関中はだだっぴろく、賊の連中が銘々の陣地に引きこもれば、それを掃討するのに、一、二年ではきかんだろう、それを賊の方からやってきて一塊になった喜ばずにいられようか」と答えました。曹操は、その為に渡河しなくても安全に涼州に出られる河東ルートを採用せず、あえて潼関に大軍を結集して、関中軍閥が南に集まるよう誘導したのです。

 

 

一騎打ち

 

 

 

自分達の強みを捨てた事が敗北の原因

龐徳

 

潼関の戦いにおいては、関中連合軍は騎兵の強みである機動力と遊牧民の特徴である守備ポイントをもたずに各地に散らばるという二つのメリットを活かす機会に恵まれませんでした。元々、馬超は追い詰められて蜂起したわけで、そこまで考えるゆとりはなかったわけですが、逆に曹操は、関中軍閥の特徴をよく知り抜いていて、その長所を発揮させないように注意深い戦術で臨んでいました。この潼関の戦いは、曹操の頭で想像した通りに物事が推移し武帝紀からは、その得意満面のドヤ顔が見えるようです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

以上、潼関の戦いについて、馬超の目線から勝利する方法を探りました。馬超は決して猪武者ではなく、曹操が遠征によって補給に難を抱えている事を察知するなど、戦略的に一定の眼力を持っています。しかし、臨機応変の能力には乏しいので、ここは何としても、曹操の渡河を阻止するべきでした。

 

五虎大将軍の馬超

 

馬超は、一度は曹操が渡河する時に騎兵で突撃し、あわやという所まで追い詰めましたが、見るとそれは馬超の直属の部隊だけのようなのでもし、関中軍閥の総力を挙げて襲いかかっていれば、曹操の首を取れていたかも知れませんね。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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