三国志正史と三国志演義で大きく評価が分かれる人物がいます。
その筆頭は曹操でしょう。
蜀漢の正統性を物語の柱にしている三国志演義では、
後漢王朝を傀儡とし、劉備と敵対している曹操は悪人なのです。
曹操と並び評価の分かれるのが馬超です。
今回は馬超の描かれ方がいかに違うのかについて検証していきましょう。
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儒教で重んじられる忠と孝
日本の武士といえば、主君の命令に忠実であり、
例え主君の判断が間違っていても反論することなく忠義を尽くすというイメージがあります。
秩序を守ろうとする主君側にとって、配下の忠の精神はとても重要です。
特に儒学を公認した江戸幕府ではその傾向が顕著になります。
しかし、元来、忠よりも重んじられるのが孝です。
理由はシンプルで、主君が滅ぶことよりも家を存続させ、
子孫を残していくことの方が重要だからです。
孝とは「父母や祖先に尽くすこと」を指します。
最も重い罪が親殺し
ですから中国では親殺しは重罪です。
明や清の時代には「割股」という風習があり、
病気の親を介抱するために自分の肉を削いで食べさせることが最高の孝行のひとつとされています。
三国志演義における呂布は不孝の代表格でしょう。
最強の武勇を誇っても、
呂布には正義がないために無残に滅んだのだと三国志演義は強調しているようです。
三国志演義が明の時代の羅貫中によって書かれ、
清の時代の毛宗崗によって改訂されているのですから
そういった描かれ方は自然なものだったのでしょう。
馬超の父の馬騰はいつ処刑されたのか
ここで大きな問題になるのが、馬騰・馬超親子です。
なぜ問題視されるのでしょうか?
それは馬騰が曹操の命令によって処刑された理由と関係しています。
三国志正史によると曹操の漢中侵攻に危機感を持った馬超と韓遂たちは、
曹操に対して反旗を翻します。
しかし、曹操陣営の仕掛けた離間の計が功を奏し、馬超や韓遂は大敗を喫することになるのです。
これが211年の話になります。
この時点で馬超の父親は衛尉として朝廷に仕えていました。
馬超の弟たち馬休・馬鉄も同行して鄴にいたのです。
人質という側面が強かったと思われます。
韓遂は息子や孫を人質として朝廷に差し出しています。
馬超・韓遂が曹操に大敗した後、212年に馬騰らは馬超の謀叛の罪に連座して処刑されてしまいます。
一族200人が殺されたと記されています。
馬超は実父が処刑される原因を作ってしまったことになるのです。
三国志演義はどう描いたのか
しかしそのような大罪を犯した者を、
義を重んじる蜀漢が受け入れることは矛盾してしまいます。
ましてや三国志演義では五虎大将のひとりに数えられているのです。
大義のために戦っている劉備の配下の代表格が親殺しの汚名を負っているのは大問題です。ですから三国志演義は時間軸をずらしました。
馬騰は朝廷に仕える忠義の士であり、曹操の横暴を許せず謀叛を画策、それが露見して処刑されたと設定を変えたのです。
父を殺された馬超はその仇を討つために挙兵するという筋書きです。
このように三国志演義は馬超の扱いにはことさら神経を使ったようで、
版本されるたびに細かく修正されていきます。
三国志ライターろひもと理穂の独り言
馬超はなぜ親が殺されることを覚悟して挙兵したのでしょうか。
周辺の軍閥や羌などによって御輿にされた感じはあります。
10万の連合軍をまとめるためにはカリスマ性のある馬超のような存在が必要だったのでしょう。
馬超にしても不孝者と呼ばれることになっても、
地方の自治を守りたいという志があったのかもしれません。
ただし、馬超は一族を失い、さらに地盤も奪われて落ち延びていくことになります。
この結果だけを見ると悪人と言われても仕方がないのでしょうか。
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