古墳時代として時代区分の象徴にもなっている古墳は、古墳時代に盛んに作られ飛鳥時代になると、ほとんど造られなくなりました。では、どうして古墳は造られるようになり、そして廃れていったのか?
最新の研究を踏まえて古墳時代を徹底解説します。
最古の前方後円墳
箸墓古墳は最古の前方後円墳と考えられていて、これの造営が古墳時代の始まりとすることで異論はないようです。箸墓が前方後円墳のはじまりであるとするならば、なぜ箸墓が作られたかを考えることによって、前方後円墳の意味するところが推察できるのではないかと思います。
まず、箸墓はその地理的な位置において、特徴的な事実があります。
写真家の小川光三氏は、箸墓の前方部中央と檜原神社を結ぶ東西の線が北緯34度32分に一致し、さらにそれを東に伸ばした線上に伊勢の斎宮遺跡があることに着目、これを「太陽の道」と名付けました。
同じくこの緯度上には穴虫峠、長谷寺、室生寺をはじめ、大和地方の主要な遺跡がほぼ一直線に並び、さらに西方に線を伸ばすと堺市の大鳥大社、淡路島の「伊勢の森」と呼ばれる常隆寺に達します
特に、檜原神社と伊勢斎宮跡はほとんど同じ緯度にあって、どちらも太陽神といわれる天照大神に関係があります。天照大神は第10代崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命によって檜原神社に祀られましたが、次の第11代垂仁天皇の時代に、皇女倭姫命が天照大神を伊勢に移しました。檜原神社が「元伊勢」と呼ばれるゆえんです。また、小川氏はその著書の中で、
「(檜原神社の)社頭から穴虫峠への落日の見える日は、
正確に春分又は秋分の日に当たることになる」と書いています。
この檜原神社に立つと、西方に箸墓古墳が見えます。そして箸墓の前方部が向いている先には、卑弥呼の王国があったといわれる北九州の地があります。箸墓の背後に沈む夕日を見て、春は田植えの時期を知り、秋は収穫を祝う祭りが開かれたことでしょう。
卑弥呼は247年3月の皆既日食が原因で、太陽神に裏切られたシャーマンとしてその権威が失墜し、亡くなります。それは箸墓の被葬者であるとされる倭迹迹日百襲姫の伝説(太陽神であり百襲姫の夫でもある大物主神が蛇であるとわかって動転して亡くなった)にも通じています。おそらく倭迹迹日百襲姫の神話は卑弥呼のことを伝えているのです。
卑弥呼の王国は九州にあった。そして平原遺跡の1号墳が卑弥呼の墓です。大量の割られた鏡が埋葬されていたことからもそれは明らかでしょう。女王の墓にしては大変小さいものです。(対角線の長さが17.5mの方墳)。権威が失墜した卑弥呼。しかしそれでもなお卑弥呼のことを信じ続けた少数の人達がいた。九州の地では大きな墓を作ることが許されず、彼女はひっそりと葬られたのです。そして卑弥呼を信じ続ける彼らは遠く離れた畿内で卑弥呼を追悼する新しい墓を築いた。それが箸墓古墳なのだと思います。
太陽の恵みを得て人々に生活の安定をもたらしたい。それは卑弥呼が九州の地で望んで果たせなかったことです。卑弥呼の思いを継承する人々によって、この地に箸墓という巨大前方後円墳が作られたのだと思います。
前方後円墳の形
前方後円墳は、丸に三角形を組み合わせた鍵穴のような独特の形をしていますね。これにはどのような意味があるのか調べてみました。古墳時代の日本列島では、墳丘長120メートルを超える巨大古墳が125基も作られていて、そのうち121基が前方後円墳、残りの4基が前方後方墳です。
そして、これら巨大古墳のうち76基が、大和王権の中央政府があった近畿地方(大阪と奈良を中心とし、兵庫、滋賀、京都を含む)に集中しています。前方後円墳の形は、大和王権の支配層の墓であることを人々に示すため、と言えそうですがちょっと待って下さい。
巨大古墳の平面形は地上から見たのでは決してわかりません。あまりに大きいので上空高いところから俯瞰しないかぎり、その形を知ることはできないのです。まるでナスカの地上絵のようじゃないですか?もしかしたらこの形は人間に見せるためというより、天空の神に示すためかもしれません。それについては、いくつかの説があります。
(1)鳥の形説
古代から鳥は、神の世界とヒトの世界を行き来するとか、死者の魂を来世に運ぶ生き物とされてきました。水鳥や鶏をかたどった埴輪が前方後円墳から多く発掘されていることからも、鳥が重要な役割を持っていたことがわかります。
ちなみに鳥居は現代でも神社に行くと必ずありますが、あれも「ここから先は神の領域ですよ」という意味があるのですね。よく見ると前方後円墳の形は、羽をひろげて飛んでいる鳥を下から見たような形をしています。天空の神様に、「ここが下界への入り口ですよ」と言っているかのようです。
(2)子宮の形説
女性は出産を通じて新たな生命をこの世に生み出します。それは古代の人々にとって豊かさの象徴であったはずです。〇に△を組み合わせた形はどこか優しい女性を想像させますよね。
また、多くの前方後円墳は豊かに水を湛えた堀でぐるりと取り囲まれています。子宮の中で羊水に浮かぶ胎児をイメージさせないでしょうか。円形部が子宮で方形の部分が膣だとする説もあります。「死は次の生命の始まりである」という意味が込められていたと考えることができます。
(3)壺の形説
縄文時代の北九州地方の遺跡からは甕棺が多く発掘されています。大きな甕に被葬者を入れて粘土で密閉したもので、甕を子宮に見立て「胎内への回帰」と「来世での復活」を願ったものと考えられます。前方後円墳の形は壺を寝かせたような形にも見えます。壺も甕も似たようなものですから、やはりこの形は「子宮」を見立てたものではないかと思います。
(4)祭礼の場説
何かを象徴した形ではなく、単に機能や役割をもって生まれた形であるとする説もあります。まず被葬者は円墳の頂点に埋葬されます。被葬者は大和王権の支配層ですから、非常に多くの人が葬儀に参列するはずです。前方部はそれら多くの参列者と共に葬祭を行う場所として設けられました。
弥生時代後期にも儀式を行う場所を付け足したと思われる墳丘墓が見られます。この付け足しを突出部と呼んでいますが、前方部はこの突出部が成長したものとされています。弥生時代後期の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)は双方中円形墳丘墓と呼ばれ、直径約43メートルの両側に方形の突出部を持った特徴的な形をしており、突出部を含めた全長は72メートルに及びます。
楯築墳丘墓からは、祭事に使用したとみられる特殊器台・特殊壺の土器が多数発掘されていて、吉備勢力を代表する首長クラスの墓と思われます。奈良県橿原市の瀬田遺跡から発掘された弥生時代末期の円形周溝墓は、円形墓を囲む溝の一部が台形状に埋められて陸橋のようになっていました。ある研究者は、この陸橋が発展して前方後円の形になったとしています。
なぜ巨大化したのか
魏志倭人伝は、2世紀の終わりごろ倭国内で「倭国大乱」が起き、地方の小国どうしが激しく争っていたと伝えています。
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。
倭国は乱れ、相攻伐すること歴年………」(魏志倭人伝)
この倭国大乱を治めるために女子王「卑弥呼」が立てられました。卑弥呼は呪術に長けた巫女であるとともに、太陽神を崇める巫女であったともされています。争いを治めるために、人々は武力ではなく卑弥呼の「神がかり的な力」を求めたのです。魏志倭人伝は次のように続けています。
「………乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。
年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。」
あらたな女王の擁立によって、倭国大乱は治まりました。魏志倭人伝は、卑弥呼は城柵が張り巡らされ、厳重に守られた宮室で、誰とも会わずに暮らしていたと記しています。卑弥呼の死後、男子王が立つと再び争乱の世になりましたが、卑弥呼と血縁関係にあった「台与」が王位を引き継ぐと、世の中は再び平和を取り戻します。
しかし、倭国大乱と卑弥呼の死後に再び起きた争乱で国内の水田は荒廃し、労働力も失われてしまいました。また当時、気候の寒冷化もあって稲作は深刻な影響を受けていたと推察されます。それはすでに米が主食となっていた人々の食糧事情に直結する問題でした。支配層は権力をめぐって互いに殺し合うことより、コメの収量拡大に力を注ぐ方向に考えを変えなければ、人々の支持を得られない状況にあったのです。
戦争をやめて、古墳の規模で権力の大きさを誇示し、階級を決める。そのような考えが、弥生後期から古墳時代にかけて生まれたと思います。開拓した水田の規模が大きければ残土の量も多いため、古墳の規模を大きくできるという背景があったはずです。大きな水田ほどコメの生産高も高い。すなわち古墳の規模でコメの生産高をあらわし、被葬者の階層付けをする。そういう政治体制が出来上がったのではないでしょうか。巨大古墳が大阪平野や奈良盆地など水田開発に適した平地に多くあることも、その考えを裏付けていると思います。
この思想は、千年先の江戸時代へ、コメの石高で大名の階層付けをした江戸幕府の政治体制につながっていったのかもしれません。
前方後円墳体制とは
考古学者の都出比呂志は、大和王権が古墳のスタイルとその規模によって各地の首長を階層付け、政治的身分を表現したとして、それを「前方後円墳体制」と名付けました。それによれば、1位:前方後円墳、2位:前方後方墳、3位:円墳、4位:方墳の序列になるとされます。
すなわち大和王権に忠誠を誓う地方の豪族だけが、前方後円墳の築造を許されたと言うことかと思います。では、それならば前方後円墳は大和王権があった畿内地方にもっとも多く作られたはずです。実際はどうでしょうか。
考古学者の白井久美子氏によれば、前方後円墳が一番多い県は千葉県でその数は733基に及びます。2位が群馬県の455基、2位は茨城で391基と続き、4位にやっと関西の奈良県が312基で登場します。5位が北九州に移り福岡県の267基、6位が山陰の鳥取県で252基、7位の大阪府が202基です。
前方後円墳は畿内ではなく関東に多いことがわかります。意外ですよね。これに対して白井氏は、東北地方で勢力を伸ばしつつあった「蝦夷」を封じ込めるために、中央政府が関東の豪族と手を結んで軍事拠点とした結果だと、述べています。しかし、当時「蝦夷」を支配する拠点は新潟にありました。でも新潟には前方後円墳はひとつも築造されていないのです。
この事実から、藤田憲司氏は、「近畿中央部の首長と地方の豪族の関係は同盟的なものにとどまっていたのでは」と考え、「前方後円墳体制」と呼ばれるような政治的体制はなかったのではと説いています。
どのようにして巨大古墳を築いたのか
そもそも古墳は、水田開拓で発生した大量の残土を盛上げたところに墓を作ったことから始まったと思います。弥生時代後期までの小規模な墳丘墓であればその考えでうまく説明ができるでしょう。しかし、日本列島で最大の「大山古墳(仁徳天皇陵)」のような超巨大古墳の場合もそうだったでしょうか。
現代のある建設会社は、当時の技術で大山古墳を築造した場合、毎日2000人の工夫が作業して15年8か月かかると試算しました。盛り土の体積は140万立方メートルにも及びます。(参考までに東京ドームの容積は124万立方メートルです)
ひと山消えてなくなってしまうほどの土をどこから持ってきたのでしょうか?もはや水田開拓で発生する残土の量をはるかに超えていますよね。これに関して奈良教育大の梅田甲子郎氏はその論文の中で、
「崇神天皇陵、景行天皇陵、仁徳天皇陵、応神天皇陵などのような巨大な前方後円墳は、
平地に新しく築造されたものではなくて、自然の地形を利用して、
それを前方後円形に整形したものと推定する」と書いています。
また同氏は
「古墳の方向はそれぞれの地域の浸食方向すなわち残丘の延びと配列の方向に一致する」とし、
「古墳の築造に際しては、東西方向に長く延びた残丘をそのまま十二分に利用し、
原地形の変形に要する労力を節約するよう努力されたことを示すものと考えられる。」と述べています。
また箸墓古墳についても論文の中で
「古墳は墳丘の南を流れる巻向川の自然堤防を利用して築かれており、
同じ微高地上にはホケノ山や堂ノ後などの古墳がある。」と書いています。
実際、これらの前方後円墳群の配置をみてみると、向きがばらばらで統一感がありません。もし平地に盛り土をしてできたのであれば、もっと計画的に整然と並んでいてもいいはずです。
長野県の千曲市にある埴科古墳群に、森将軍塚古墳と名付けられた前方後円墳があります。4世紀中ごろの築造とされています。特徴的なのは、それが有明山の尾根上に作られていることです。山に盛り土をしたのではなく尾根を削って作ったと考えられ、尾根が自然に曲がっているため、古墳もそれに沿って前方部と後円部の軸が20度ほど曲がっています。
やや変形した前方後円墳となっていて、全長は100メートルほどもあり長野県で最大です。現在は復元されて、全面に葺石が敷き詰められた築造当時の美しい姿を見ることができます。これなどは、巨大前方後円墳が自然の地形を利用して作られたことを、如実に表している例ではないかと思います。
なぜ前方後円墳は作られなくなったのか?
古墳時代中期(4世紀後半)には大仙陵古墳、誉田御廟山古墳をはじめとした巨大前方後円墳が築造されました。ところが5世紀終わりごろになると、大和地方では巨大古墳は急に築造されなくなります。天皇陵も、用明天皇(587年没)以降は、方墳や八角墳の小規模なものになっていきました。
八角は中国の政治思想で「天下を支配する者」の意味があります。しだいに前方後円墳は全国支配の象徴ではなくなっていったのです。前方後円墳として最後の天皇陵は、敏達天皇陵です。93メートルとかなり小規模になりました。一方同時期、地方の前方後円墳は、断夫山古墳(愛知:151メートル)を始め、敏達天皇陵の大きさを上回る古墳はまだ全国で築造されています。中央政府の規制が利かなくなった分、地方の豪族が自由に古墳を作り出したのでしょうか。
645年、「乙巳の変」が起きています。大きな政治的力を持っていた蘇我氏一族を、中大兄皇子と中臣鎌足が滅ぼしたのです。皇極天皇から弟の孝徳天皇に譲位し、蘇我氏を排斥した新たな政権が誕生しました。翌646年の元旦、「改新の詔」が発布されたと「日本書紀」は記録しています。
そして646年3月に「薄葬令」が発布されました。これは、身分に応じて墓の規模を制限する勅令で、天皇陵の築造にかかる日数は7日以内に制限され、石室のサイズや副葬品なども細かく定められたのです。また、人や馬の殉死殉葬も禁止されました。民衆の負担や犠牲を減らすためとされていますが、地方の豪族から巨大な墳墓造営の機会を奪うことで、大和政権に権力を集中させる政策の一環とも考えられています。
仏教の伝来と古墳時代の終焉
時代がもどりますが、聖徳太子の伝記である「上宮聖徳法王帝説」によれば、538年に百済国の聖明王が仏教経教と僧侶を蘇我稲目に送ったことがはじめての仏教伝来として記録されています。
「志癸嶋天皇の御代の戊午の年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教並びに僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆せしむる也。」(上宮聖徳法王帝説)
仏教を積極的に取り入れようとする蘇我氏でしたが、物部氏は「外国の神ではなく天照大神をはじめとしたこの国の神々を崇めるべきだ」として、両者は対立を起こします。
最終的に崇仏派の蘇我氏と後の聖徳太子によって物部氏は滅ぼされ、仏教が日本に広まっていくことになります。支配層は寺院に葬られるようになって、古墳は次第に姿を消していきました。
聖徳太子は604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制作りの礎を築いていきます。それまでの巨大古墳によって権力を示した政治体制は終わりを告げ、日本は律令国家として歩みだしたのです。
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