仁徳でもって人々を魅了し続ける劉備、引き離されても常に主君・劉備を想い続けた義の人・関羽、主君・劉備の死後、その志を受け継いで劉禅を補佐し続けた忠義の智謀家・諸葛亮…。
三国時代の英雄たちは、仁徳やら忠義やら、そんな言葉の似合う人たちばかりですね。ところで、仁徳だの忠義だのといった言葉は、一体どこから生まれた言葉なのでしょうか?
この記事の目次
儒教の祖・孔子が説いた五常
『三国志』に登場する人々が度々口にした「仁徳」やら「忠義」やらといった言葉は、儒教の祖である孔子が説いた五常に由来するものです。
孔子は人が常に大切にしなければならない心として、仁・義・礼・孝・忠の5つを挙げています。
どれも聞いたことのあるものばかりでしょうけれど、実際にどのようなものであるかと問われると、ちょっと言葉に窮してしまいますよね。というわけで、五常がそれぞれどんなものであるのか、簡単に解説を加えていきたいと思います。
溢れる無限の愛~仁~
まず、筆頭に掲げられる「仁」ですが、これは「他者を慈しむ心、愛する心」です。キリスト教でいうところの無限の愛、アガペーを持つということですね。人は自分が一番かわいいもので、他者を自分と同等かそれ以上に大切にすることは難しいものです。しかし孔子は、人を自分と同等以上に愛することのできる者こそが、人の上に立つにふさわしいと説いています。
欲を捨てて正しい道を歩み続ける~義~
孔子は己の欲望を追及し続ける者を嫌悪し、欲望を克服して正義を貫くことに努めるべきだと説きました。たとえ目の前に宝の山を積まれても、自分の友人や主君を売るような真似はしない。このような、欲望に負けず他者のために尽くす心を孔子は「義」と言っているのです。所謂自己犠牲の精神につながるものと考えることもできるでしょう。
相手への愛を表現する~礼~
私たちにとっての身近な礼といえば、挨拶や服装などが思い浮かぶと思いますが、その根源はやはり儒教にあります。
孔子は礼を相手に愛を表現するための手段であるとしています。ただ心に相手への愛情や敬意を秘めていても、それを表現しなければ意味が無いというのが孔子の考え方です。しかし、心を伴わない礼はNGだとも言っています。皆さんは挨拶をするとき、心をしっかり込めていますか?
形だけではなく心も込めて挨拶するようにこころがけたら、相手の態度も変わってくるかもしれませんよ。
親に感謝の心を~孝~
親がいなければ自分は存在していない。このことを意識すれば、自然と親への感謝の気持ちがわいてくるものだというのが孔子の考え方です。更に孔子は、子はどんなときも親、特に父親に従うべきであると言っています。子どもを虐待する親を取り上げるニュースが度々世間を賑わせる昨今において、この「孝」という考え方はナンセンスともいえますが、その当時は、親は子を大切に育てるものだというのが一般認識だったため、そんなアホな親が存在することについては想定していなかったのではないでしょうか。
臣下は君主に心を尽くす~忠~
「孝」と対になるものとして度々取り上げられるのが「忠」です。
孔子は君主に心を尽くして仕える臣下の真心の重要性を「忠」という言葉で表しました。しかし、孔子はこの「忠」について「孝」より優先するものではないと考えていたようです。孔子は主君を3度諫めても話を聞いてくれなければその主君のもとを去ればよいとしていますが、父親を3度諫めても話を聞いてくれなかった場合には泣きながら従うしかないと言っています。
三国志ライターchopsticksの独り言
孔子が説いた五常の考えは、『三国志』で活躍した英雄たちの矜持として、時に英雄たちをますます輝かせ、時に英雄たちの命を縮めるものとなりました。そんな五常の考え方は、私たち日本人の心にもしっかり息づいています。もちろん、孝や忠など、孔子の説く五常の全てが現代にも通用するとはいえませんが、仁・義・礼といった3つについては、これからも大切にしていきたいものですね。
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