劉備が高名な隠士・諸葛亮の庵を三度も訪問し、自らの配下に加えたという三顧の礼。
三国志演義では、一度目の訪問時にはお留守。
二度目の訪問時には諸葛亮の弟の諸葛均が在宅しており、
劉備が彼を諸葛亮だと勘違いするシーンがあります。
このとき、劉備は “なぁんだ人違いか”とばかりに諸葛均には一顧だにせず帰ってしまいますが、
諸葛均のほうは劉備に自分を売り込む気まんまんだったようです。
劉備さん、アピールに気づかず帰ってしまうなんて、罪な人!
※本稿で扱うのは三国志演義の内容です
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二度目の訪問時の状況
劉備が初めて諸葛亮の庵を訪れた時は、門番の童子に「先生にお目にかかりに来た」と告げて、
外出中ですという返事だったため、劉備は引き返しました。
二度目の訪問時には、劉備は「先生はご在宅か」と尋ね、門番は「部屋で読書中です」と答えました。
劉備はここを諸葛亮の庵だとばかり思っていますから、
「先生」と言えば諸葛亮のことだと思い込んでおり、
先生ご在宅=諸葛亮に会える! と思っています。
しかしこの時、諸葛亮は留守で、弟の諸葛均だけが在宅していました。
門番の童子から見ればどちらも先生なので、
諸葛均が部屋にいるため「部屋で読書中です」と答えたのでしょう。
(うがった見方をすれば、諸葛亮も在宅していたけれども劉備来訪と聞いてどこかに隠れて
居留守を使ったとも考えられます。弟に応対させておき、劉備を観察する魂胆)
諸葛均のコマーシャルソング
劉備が童子に案内されて門内に入って行くと、炉の前で一人の少年が膝を抱えて歌っています。
(漢文の「少年」はチビッ子のことではなく、とても若い男という意味)
鳳は千仞に翱翔して 梧にあらざれば栖まず
士は一方に伏処して 主にあらざれば依らず
隴亩に躬耕するを楽しみ 吾は吾が廬を愛す
聊かに傲を琴書に寄せ 以て天の時を待たん
この歌の意味は、こんなところでしょう↓
仕えるべき主があらわれるまで、ボクはここで隠棲しているんだ。
すてきなめぐり合わせがあれば世に出る気まんまんだけれどね。
なんと物欲しげな歌でしょう!
門番の坊やが
「劉将軍、ささ、こちらでございます」
とでも言いながら来客を案内している気配を察して、
すかさずこんな歌をうたって聞かせるとは、劉備に自分を売り込む気まんまんですね。
劉備が接近していることに気づいてないってことはないと思います。
庵がある隆中は人の出入りの少ない山の上なので、
見慣れない人がうろついていたら土地の住人はすぐに気づいて
土地の名士である諸葛さんに報告を入れるはずです。
先日留守にしていた時に劉備が来たということは知っていますから、
今日のこの客も劉備だろうと見当がつくはずです。
そろそろ劉備が到着する頃だと分かって待ち構えていたのではないでしょうか。
なぁんだ、類似品か
劉備はこの少年を諸葛亮だと思い込み、あいさつをします。
劉備「わたくし久しく先生のことをお慕いしておりました。お目にかかれて光栄です」
少年「将軍は劉予州どのではあられませんか。兄をおたずねですか?」
劉備「先生も臥龍先生ではないのですか?」※これまでさんざん人違いをしてきた
少年「私は臥龍の弟の諸葛均です」
劉備「臥龍先生はご在宅でしょうか?」
……諸葛均の渾身のコマーシャルソングを無視して、
さらっと本命の諸葛亮を探しにかかっていますね。
諸葛均「友人の崔州平と遊びに行っています」
劉備「どこへ行かれたのですか」
諸葛均「江湖に小舟を浮かべることもあれば、山嶺に僧や道士を訪ねることもあり、
村落の友人をおとなうこともあれば、洞窟で琴棋を楽しむこともあり、
往来ははかりがたく、どこへ行くとも知れません」
諸葛均のこの返事。諸葛亮の俗人離れした様子を表現する描写のように見えますが、
うがった見方をすれば、劉備に腹を立ててわざと不親切な返事をしたとも解釈できます。
兄さんがどこへ行ったかなんて知らないよ!
ボクのことを相手にする気がないんならあんたのことなんかもう知らないんだから!
諸葛均のそっけない返事
劉備のお供をしてきた張飛が、諸葛亮がいないならもう帰ろうと言いますが、
劉備はせっかく来たのだから話の一つでもして帰ろうと答え、諸葛均に質問します。
劉備「ご令兄は六鞱・三略に精通され、日々兵法書を見ておられるとか」
諸葛均「知りません」
張飛「むだなおしゃべりじゃないか。吹雪いてきたぜ。さっさと帰ろう」
劉備が張飛を叱りつけていると、諸葛均はこう言いました。
「兄が不在ですので、お引き留めしませんよ」
諸葛亮の兵法の知識については「知りません」とそっけない返事、
張飛を叱りつけてまで居座ろうとする劉備に「お引き留めしません」と追い返すような発言。
諸葛均のこんな本音が聞こえるような気がしませんか↓
“兄さんにしか興味がないならもう帰ってよ!”
三国志ライター よかミカンの独り言
劉備の眼中には諸葛亮しかなく、諸葛均のアピールには気づかなかったのでしょうか。
諸葛均は、劉備に相手にされなくて怒ってしまったように見えます。
後日、劉備が三度目の訪問で諸葛亮に会い、諸葛亮が庵を出て劉備に仕えることになった時、
諸葛亮は諸葛均にこう言っています。
「お前はここで畑を耕し、農地を荒らさないようにしておくれ。
私も功が成った暁にはまたここへ戻って隠棲するから」
諸葛均は劉備に仕えたかったのに、留守番してろとは酷な言いつけですね。
三国志演義の諸葛均は、どうしてこんなに地味な扱いになってしまったのでしょうか。
正史では蜀に仕えて長水校尉にまでなっているのですが、
長水校尉は重鎮の子弟の出世コースの途中にあるような役職で、
ゴールとしてはあまりに地味です。
若くして亡くなったのでしょうか。生没年も不明です。
正史の記録がこれしかないから、演義でも地味にならざるを得なかったのでしょうか。
諸葛均。
出番は少ないですが、地味に印象に残る登場人物です。
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