中国の歴史を読み解く上で欠かせない存在である漢字。私たち日本人にとっても漢字は馴染み深い存在です。しかし、皆さんもご存知の通り、漢字は最初から今私たちが使っているものと同じ形をしていたわけではありません。最初の漢字はいつどんなふうに生まれてどのように変化を遂げて私たちが良く知る形になったのか今回はその軌跡を追ってみたいと思います。
甲骨文字の誕生
中国で最初に文字をつくったのは黄帝に仕えていた蒼頡という人物であるとされています。蒼頡は鳥が砂場を歩いた後足跡が残っているのを見て「この足跡を見ただけで鳥が歩いたことが推測できるということは…!」と閃いて文字を考案するに至ったそうです。
もしもこの伝説が本当ならば、紀元前2500~2400年頃に漢字が生まれていたということになりますが、漢字が用いられていることが名実共に確認されているのは紀元前1300~1000年頃の殷代後期とのことです。
この漢字の名前は皆さんも聞いたことあるでしょう。甲骨文字もしくは亀甲獣骨文と呼ばれています。占いの結果を占いで使った亀の甲羅や動物の骨に刻みつけているということからこの名が冠せられました。
次々と派生していく漢字
甲骨文字は物の形をかたどって作られた象形文字がほとんどだったようですが、それらのものを組み合わせた会意文字や抽象的な概念を示す指示文字、そして周代には意味を表す意符と音を表す音符とが組み合わさった形声文字がどんどん作られていくようになります。
文字も甲骨文字から青銅器などに刻まれた金文へと姿を変え、周王朝に凋落の兆しが見え始めた頃にはオタマジャクシのような形をしている蝌蚪文字や太史籀が考案した大篆が通行するように。しかし、広い中国に同じ文字を行きわたらせる力は既に周王朝には無かったため、春秋戦国時代には各国でオリジナルの文字が使われるようになってしまったのでした。
始皇帝が小篆をつくる
手ごわいライバルたちを倒して戦国時代の動乱を終わらせた秦の始皇帝はかねてより各国で文字が違うということを問題視していたために中華統一後は速やかに文字の統一に着手しました。
始皇帝は李斯に命じて周王朝が最後に残した権威の証ともいえる大篆を簡便なものにアレンジさせて小篆と呼ばれる文字をつくらせたのです。この小篆は現代でも主に印鑑などで使われる書体ですから皆さんにとっても馴染み深いものですよね。
より平易な隷書の登場
始皇帝の熱い志によって生み出された小篆でしたが、やっぱりカクカクしていて複雑で当時の役人たちにとっても筆でサラサラッとメモを書くにはめんどくさすぎる代物だったようです。というわけで、小篆の形は次第に崩されていくようになり、結果的「これ使えばいいじゃん!」と見出されたのが隷書です。
隷書は元々戦国時代で日常的に使われていた文字だったようで、現代私たちが使っている漢字にかなり近いもの。お札にも隷書が使われているので、皆さんもお財布からお札を取り出して隷書で書かれている文字を探してみてください。どれが隷書かわかるでしょうか?
文字はますます簡便化する
隷書が通行するようになって文字の問題も一件落着したわけですが、人間と言うのは昔から「もっと楽したい」と願ってしまう生き物らしく、文字の簡便化はますます進んでいったのでした。
アルファベットの筆記体よろしくますます手で書くのに適した姿に変化を遂げていった漢字は、後漢を過ぎると現代私たちが使っている楷書体や行書体、草書体で書かれるようになったということです。
そして更に時が過ぎ、中華人民共和国では簡体字が制定されます。「これはちょっと簡略化しすぎじゃない?」というものも中にはありますが、手書きで書くときにこれほど便利な漢字は無いので正直ときどきうらやましくなりますね。
三国志ライターchopsticksの独り言
ひとえに漢字といっても、その姿は時代によって全く異なるものです。そのために中国では一昔前の文字を読み解く努力が早い段階からなされていました。彼らが文字にかけた情念には並々ならぬものを感じます。皆さんもたまには漢字に思いを馳せ、そのルーツを探ってみてはいかがでしょうか?