明智光秀の遺体は本物ではないって本当?

2018年11月6日


 

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明智光秀

 


美濃国の牢人として身を起こした明智光秀(あけちみつひで)斎藤道三(さいとうどうさん)に見いだされ、次に足利義昭(あしかがよしあき)の知遇を受けて活躍し、さらに美濃を攻略して天下布武に乗り出した織田信長(おだのぶなが)に大抜擢を受ける事になります。しかし、その信長をも光秀は、様々な経緯から本能寺で討つ事になりました。その後、山崎の合戦で羽柴秀吉(はしばひでよし)に敗れて落ち武者狩りの土民に殺害される末路を迎えますが首も遺体も本物ではないという説があるのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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織田信長の家臣として出世した明智光秀

織田信長の家臣として出世した明智光秀

 

明智光秀は室町幕府滅亡後、坂本城の城主となり、織田信長の家臣として京都の市政を担当しました。石山本願寺などの一向一揆との戦いや丹波国への侵攻などで活躍します。丹波国への侵攻については波多野秀治(はたのひではる)が抵抗したことにより長期化しました。最初に亀山城(現在、京都府亀岡市にある亀岡城)を落とし、丹波攻めの拠点としました。

 

1579年に八上城を落とし、同じ年に黒井城を落としました。丹波国を平定したことで、信長から丹波国1国を所領として与えられました。丹波国1国を与えられただけでなく、1581年に光秀は京都御馬揃(おうまそろ)えの運営を任されました。1582年に天目山の戦いで武田勝頼を討伐するために信長の嫡男織田信忠とともに出陣しています。光秀は信長から信頼されていた家臣だったと考えられます。

 

 

 

なぜ、明智光秀は織田信長を裏切ったのか?

本能寺の変

 

明智光秀は織田信長を裏切った動機について、直接書かれた史料がないため推測として考えられることを取り上げます。1つめは徳川家康(とくがわいえやす)饗応役(きょうおうやく)を解かれ、坂本城と丹波国を取り上げられたことです。代わりに、石見国などが与えられましたが、石見などは毛利の所領であり、戦いで奪い取れという内容でした。これが本能寺の変の直接的な動機といわれています。

 

大河ドラマなどでは、徳川家康が安土城を訪れたとき、饗応役だった光秀が足蹴りされるシーンを見たことがあると思います。2つめは丹波国平定にあると考えられます。波多野秀治に光秀の母親を人質として出していました。人質として出していた母親が波多野秀治に殺されたことが本能寺の変の動機となっていると考えられます。他に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)または秀吉の家臣だった黒田官兵衛(くろだかんべい)が光秀に本能寺の変を決行させたという説もあります。

 

 

明智光秀の首も胴体も偽物だった!

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀b

 

首尾よく信長を討った明智光秀ですが、幸運もここまででした。味方に付くと算段していた細川藤孝(ほそかわふじたか)忠興(ただおき)の親子はだんまりを決め込み他の大名も日和見を決め込んだのです。味方が少なく不安な時に、羽柴秀吉(はしばひでよし)が中国大がえしで想定外の速さで帰還した事で明智勢は動揺して総崩れになり、光秀も落ち武者狩りの土民に殺害されて人生の幕を下ろします。

 

しかし、首実験に出された明智光秀の首は3つもあったと言われています。当時は写真などが存在しないので、光秀の顔を知る兵は少なく、それらしい大将首を光秀として持ってきた可能性も否定できません。おまけに時は夏で光秀の首は腐敗し原型を留めていなかったと言われます。ところが秀吉は、3つすべてを光秀の首と認定してしまいました。一刻も早く光秀を殺した事にし信長の仇を討った形にしたかったのです。

 

光秀の遺体は土民の竹槍で刺殺された場所から近い、京都市山科区の勧修寺御所内町に埋葬され胴塚と呼ばれていました。ですが、首が3つあるなら遺体も3つあるわけで遺体も本物ではない可能性があります。このような事から、光秀は死んでいないという噂が広まっていったのです。

 

本能寺の変の特集

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は明智光秀が本能寺の変を決意するまでの経緯と動機について取り上げました。明智光秀は織田信長を裏切った動機については直接書かれた史料がないため、「なぜ、明智光秀は織田信長を裏切ったのか?」ではこれまでに可能性の高い有力な説を取り上げました。

 

司馬遼太郎の著書では、織田信長を新しい発想を取り入れるという点で革新派、明智光秀を旧来からの朝廷の慣習を守るという点で保守派としてそれぞれ取り上げています。信長と光秀の考えの違いが潜在的な対立となり、本能寺の変に至ったのかもしれません。2020年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』では、本能寺の変を決意する動機としてどの説を中心に話を展開するのか気になります。

 

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ほのぼの日本史

 

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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