後漢王朝が滅んだ理由としてよく語られるのは外戚と宦官による権力争いですよね。しかし、実はもっと別のところにも滅亡の原因があったと言われています。それは、異民族による度重なる反乱。辺境の地で日々ヒャッハーしている異民族たちは漢民族の言葉や常識が通じない上にやたらと屈強。
そして、謎のタフさで漢王朝を度々苦しめました。宥めてもすかしても嫌な意味でへこたれない異民族たち。中でも、後漢時代に最も漢王朝を苦しめたのは羌族であると言われています。一体羌族とはどのような民族だったのでしょうか?
強い奴にくっついて歩く世渡り上手な民族
羌族は紀元前5世紀頃に中国の西北部に現れたと言われています。しかし、羌族は漢民族にとってそれほど害が無かったのか小さな民族だったために歯牙にもかけられなかったのか正史では『後漢書』に至るまでまともに取り扱われることはありませんでした。
羌族は前漢代には北方でブイブイ言わせていた匈奴にくっついて一緒に漢に侵入してみたり、武帝によって匈奴がけちょんけちょんにやられた後は漢にくっついて静かに生活したりしていました。羌族はけっこう世渡り上手な民族だったみたいですね。
王莽による簒奪の後大暴れ
前漢末期、とち狂った王莽が「摂皇帝」だの「仮皇帝」だのと名乗りだし、ついには「高祖・劉邦の霊が俺に帝位をくれた!」とかなんとか言って帝位を簒奪してちゃっかり新を建国すると、国内だけではなく異民族にも動揺が起こりました。
漢王朝が絶対的存在ではないということが異民族に知れ渡って色めき立ったというわけです。しかも、新は十数年で「やっぱり漢が良かった!」と眉毛を赤く染めた輩たちに大暴れされた結果あっさり転覆。
そんなわけで漢王朝は再び返り咲いたのですが、この一連の動乱は「俺らもワンチャンあるんじゃね?」と異民族たちを更にワクワクさせてしまうことになりました。その中でも特別ワクワクしてしまったのが羌族だったようです。それまで地味だったのに漢の領土に度々侵入してヒャッハーしまくる羌族。漢王朝もその度に国の威信をかけて羌族を討伐しに出かけるわけですが、あまりにしつこい羌族に辟易…。
「こいつら、何とかならんのかな…」と悩みに悩んだ漢王朝は戦う度に羌族を捕まえて漢の領内に住まわせて飼いならすことにしたのでした。
何度も反乱を起こして漢王朝のHPを削りまくる
しばらくは黙って飼いならされていた羌族。漢王朝の方も羌族は敵というよりも仲間…というより犬と思うようになっていき、うまいこと羌族を使ってやろうと考え始めます。
そんなわけで漢王朝は羌族に西域征伐を命じました。元気よく「OK!」の返事をして勇んで出かけて行った羌族。
しかし、西域に向かう途中で「これ以上遠くに行っちゃったら、家族の元に帰れなくなっちゃうんじゃね…?俺ら、漢民族に騙されてるんじゃね?」という恐怖心や猜疑心が彼らの中に芽生え始めます。この恐怖心や猜疑心は仲間の中に次々と伝播していき、途中で逃げ帰ろうとする者が続出。
ところが、彼らの前に「そんなことは許さん」と故郷への道に立ち塞がる漢民族たち。「もう辛抱ならん!」とブチギレた羌族はついに大反乱を起こして西域への道を塞いでしまいます。その際羌族を取りまとめていた滇零は「我こそは天子である!」と皇帝を僭称。ついには長安に攻め入って来るまでになり、漢王朝は十数年にわたって苦戦を強いられることになりました。
滇零の死後、漢王朝はようやく羌族の反乱を鎮圧できたのですが、それまでにかかった膨大な軍費によって財政が圧迫され、再び滅亡への道を歩み始めることになってしまったのです。
馬騰・馬超・韓遂と結んで大暴れ
反乱を鎮圧された後はしばらくは鳴りを潜めていた羌族でしたが、黄巾の乱が起こると再びヒャッハーし始めます。羌族の血を引く馬騰・馬超親子と共に魏に仕えて戦ったり馬超が曹操と仲が悪くなると韓遂と共に反乱を起こしたり。結局馬超が劉備に帰順すると、羌族も蜀に仕えるようになったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
その後も五胡十六国時代に五胡の一員として暴れまくり、後秦王朝を立てる羌族ですが、結局その王朝も東晋によって滅ぼされてしまいます。その後目立った活動をすることは無い羌族ですが、彼らの子孫は現代でも中国の西域で暮らしているみたいですよ。
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