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【古墳時代】初代神武天皇から26代継体天皇まで一挙紹介

2018年11月13日


 

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前方後円墳(古墳)

 

Wikipedia「皇室の系図一覧」によれば、第10代崇神(すじん)天皇から26代継体(けいたい)天皇までが古墳時代とされています。今回はそれに倣って、継体天皇までを記事にしました。初代から第9代開化(かいか)天皇までは黎明期とされていますが、(りょう)として古墳が作られていたりしますので、参考として載せました。

 

ちなみに、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは、欠史八代(けっしはちだい)と呼ばれていて、日本書紀や古事記に系譜は残っているものの、実在したかどうかは疑わしいとの説が有力となっています。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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この記事の目次

初代 神武天皇(じんむてんのう)

初代 神武天皇(じんむてんのう)

 

磐余彦尊(いわれひこのみこと)は、鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)玉依姫(たまよりひめ)の四男として、庚午(かのうえうま)年の1月1日に生まれたとされています。これは、日本書紀を読み解くと、紀元前711年2月13日になります。()の羽根を葺いた産屋で生まれたと伝えられ、宮崎県日南市にある鵜戸神宮が、その産屋の跡とされています。15歳で皇太子となり、45歳の時に東方に都を作るため、皇子らと共に奈良盆地に向けて、水軍を率いて出発しました。(神武東征)

 

険しい山道に行く手を阻まれて進軍が難航しているときに、八咫烏(やたがらす)が突如現われて軍勢を導いたとか、三輪山の西方で、長髄彦(ながすねひこ)と決戦になった時には、金色に輝く(とび)が磐余彦尊の引く弓の先にとまって、長髄彦が恐れをなして撤退したという伝説が残されています。磐余彦尊は橿原に都を築き、天皇として即位、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれたとされています。即位年は、紀元前660年2月11日とする説が有力です。明治から終戦までの時代は、この日を皇紀元年としていました。

 

玉櫛媛(たまくしひめ)大物主神(おおものぬしのかみ)の間に生まれた子、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を皇后に迎えたとされています。日本書紀では神武76年(紀元前585年)に崩御したとされ、127歳で亡くなったことになります。

 

畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)が、その(みささぎ)であると比定されています。奈良県橿原市大久保町にあります。四条ミサンザイと呼ばれ、直径約30メートルの円墳です。現在の姿は文久3年(1863年)に大金を投じて修復されたものです。

 

 

 

第2代 綏靖天皇(すいぜんてんのう)

第2代 綏靖天皇(すいぜんてんのう)

画像:綏靖天皇Wikipedia

 

神武天皇29年(紀元前632年)に、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の間に生まれました。神武天皇が崩御すると、長兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)が、二人の弟である神八井耳命(かんやいみみのみこと)と、神渟名川耳尊(かんぬんなかわみみのみこと)を殺害して皇位につこうと企てました。(手研耳の反逆)

 

神八井耳と神渟名川耳の兄弟は、これを阻止しようと、手研耳の寝込みを襲撃します。しかし兄の神八井耳は手が震えて、矢を放つことができません。代わって弟の神渟名川耳が矢を放ち、手研耳を討ち取りました。この失態をいたく恥じた兄の神八井耳は、皇位を弟の神渟名川耳に譲ったとされています。

 

綏靖天皇の逸話として、日本の説話を集めた南北朝時代の「神道集」に、天皇が一日に7人もの人々を食べる「食人」の趣味があったと書かれてあります。恐怖に(おのの)いた人々によって、天皇は岩屋に閉じ込められたとされていますが、真偽のほどはわかりません。綏靖33年(紀元前549年)に84歳で崩御しました。諡号は、神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)です。(みささぎ)は、桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)とされています。奈良県橿原市四条市にあって、直径30メートルの円墳です。

 

 

大和朝廷

 

 

第3代 安寧天皇(あんねいてんのう)

第3代 安寧天皇(あんねいてんのう)

画像:安寧天皇Wikipedia

 

綏靖天皇5年(紀元前577年)に、綏靖天皇と皇后五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)との間に生まれました。皇后は渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)で、初代神武天皇の皇后であった姫踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の妹にあたります。安寧38年(紀元前511年)に66歳で崩御。日本書紀による諡号は、磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)です。安寧天皇については記録があまり残されてなく、謎が多い天皇となっています。

 

 

第4代 懿徳天皇(いとくてんのう)

第4代 懿徳天皇(いとくてんのう)

画像:懿徳天皇Wikipedia

 

綏靖天皇29年(紀元前553年)に、綏靖天皇と渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)との間に生まれた第2皇子です。出雲に行幸(ぎょうこう)(天皇の外出)したとき、スサノオに出会ったという逸話が残っています。スサノオはヤマタノオロチを退治して、草薙剣(くさなぎのたち)天照御大神(あまてらすおおみかみ)に献上したという伝説上の神です。懿徳35年(紀元前476年)に77歳で崩御しました。日本書紀による諡号は、大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)です。(みささぎ)は、畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)で、マナゴ山と呼ばれています。奈良県の橿原市西池尻町にあります。

 

 

第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)

第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)

画像:孝昭天皇

 

懿徳天皇5年(紀元前506年)に、懿徳天皇と天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)との間に生まれました。母の天豊津媛命は、第3代安寧天皇の第1皇子である息石耳命(おきそみみのみこと)の娘にあたります。皇后は、世襲足媛(よそたらしひめ)で、83年という長期にわたり在位し、114歳で亡くなったとされています。

 

孝昭83年(紀元前393年)に崩御。日本書紀による諡号は、観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)です。陵は、掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまえのみささぎ)で奈良県御所市にあります。自然の地形を利用して作られたとみられる山形の古墳となっています。

 

 

第6代 孝安天皇(こうあんてんのう)

第6代 孝安天皇(こうあんてんのう)

画像:孝安天皇

 

孝昭天皇49年(紀元前427年)に、孝昭天皇と皇后世襲足媛(よそたらしひめ)との間に生まれた第2皇子です。皇后は押媛(おしひめ) で、天皇の同母兄(孝昭天皇の第1皇子)である天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひこのみこと)の娘であり、天皇の姪にあたります。孝安102年(紀元前291年)に崩御したとされ、137歳まで生きたことになります。日本書紀による諡号は、日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)です。陵は玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)とされています。奈良県御所市大字玉手にあって、自然の丘を利用した円丘となっています。

 

 

第7代 孝霊天皇(こうれいてんのう)

第7代 孝霊天皇(こうれいてんのう)

画像:孝霊天皇Wikipedia

 

孝安天皇51年(紀元前342年)に、孝安天皇と皇后押媛(おしひめ)との間に生まれました。

 

皇后は、細媛命(くわしひめのみこと)で、ひとり授かった皇子の大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)は、後に孝元天皇となります。妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間に生まれた皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまととびももそひめのみこと)は、箸墓古墳の伝説に残る巫女とされています。夫である大物主神が蛇であることがわかって驚き、箸が刺さって死んでしまうという伝説ですが、卑弥呼(ひみこ)のことだとする説もあります。また同妃と間に生まれた皇子の吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、四道将軍(しどうしょうぐん)のひとりとして、崇神天皇10年に、西道(山陽道)へ派遣されることになります。孝霊76年(紀元前215年)に128歳で崩御。日本書紀による諡号(しごう)は、大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)です。陵は、片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)で奈良県北葛城郡にあります。自然の地形を利用した山形の古墳となっています。

 

 

第8代 孝元天皇(こうげんてんのう)

第8代 孝元天皇(こうげんてんのう)

画像:孝元天皇Wikipedia

 

孝霊天皇18年(紀元前273年)に、孝霊天皇と皇后細媛命(くわしひめのみこと)との間に生まれました。皇后の欝色謎命(うつしこめのみこと)(うつしこめのみこと)との間に生まれた第1皇子の大彦命(おおひこのみこと)は、崇神天皇10年に四道将軍として、北陸へ派遣されることになります。

 

伊香色謎命(いかがしこめのみこと)との間にできた皇子、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、第12代から第16代の各天皇に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)という人物の父親となります。孝元57年(紀元前158年)に116歳で亡くなりました。日本書紀による諡号は、大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくるめのすめらみこと)です。陵は、劔池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)で、奈良県橿原市石川町にある前方後円墳です。中山塚1~3号墳と呼ばれ、小さな前方後円墳1基と円墳2基で構成されています。

 

 

第9代 開化天皇(かいかてんのう)

第9代 開化天皇(かいかてんのう)

画像:開化天皇Wikipedia

 

孝元天皇7年(紀元前208年)に、孝元天皇と皇后欝色謎命(うつしこめのみこと)との間に生まれた第2皇子です。皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で、もとは孝元天皇の妃でしたが、開化天皇の即位とともに皇后となりました。(きさき)姥津媛(ははつひめ)との間にできた第3皇子、彦坐(ひこいますのみこ)は、崇神天皇10年に、四道将軍として丹波に派遣される丹波道主命(たんばのみちぬしのみこ)の父親にあたります。開化60年(紀元前98年)に110歳で崩御。日本書紀による諡号は、稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)です。陵は、春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)で、奈良市油阪町にあります。前方後円墳で、墳丘長はおよそ100メートル。念仏寺山古墳と呼ばれています。

 

 

第10代 崇神天皇(すじんてんのう)

第10代 崇神天皇(すじんてんのう)

画像:崇神天皇Wikipedia

 

開化天皇10年(紀元前148年)に、開化天皇と皇后伊香色謎命(いかがしこのみこと)との間に生まれた第2皇子です。迎えた皇后は御間城姫(みまきひめ)で、後述の「四道将軍」のひとり、大彦命(おおひこのみこと)の娘にあたります。(大彦命の叛乱を怖れ人質としての意味があったかもしれません)。

 

大和政権として国家の体制を整えることに尽力したため、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも呼ばれます。崇神天皇6年のとき、国内で疫病が流行り、多くの民が亡くなりました。天皇は天照大神(あまてらすおおみかみ)倭大国魂(やまとのおおくにたまのかみ)(やまとのおおくにたまのかみ)の二神を宮中に祀っていることが原因と考え、この二神を宮中から離れた別々の場所で祀ることにしました。

 

天皇は天照大神を、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)(生母は遠津年魚眼眼馬妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)(とおつあゆめまぐわしひめ))に託して、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀りました。一方の倭大国魂神は、皇女の渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)(ぬなきいりびめのみこと、生母は尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)につけて祀らせました。しかし、渟名城入媛命は髪が抜け、体が痩せてしまい、これを祀ることができなかったとされています。

 

崇神天皇10年9月、中央に反乱する豪族らを討伐するために、「四道将軍(しどうしょうぐん)」と呼ばれる皇軍を各地に派遣します。

 

・大彦命(第8代孝元天皇の第1皇子)を北陸道に、

・武渟川別(大彦命の子)を東海道に、

・吉備津彦(第7代孝霊天皇の皇子)を西道(山陽道)に、

・丹波道主命(第9代開化天皇の皇孫)を丹波(山陰道)に向けて出陣させました。

 

しかし大彦命は、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻、吾田媛(あたひめ)が謀反を企ていることを、倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと)(第7代孝霊天皇皇女で箸墓の伝説に残る巫女)の予言によって知り、引き返します。

 

天皇はさっそく軍勢を差し向けて、吾田媛と安彦の反乱軍を打ち破りました。その後、四道将軍は再び各地に向けて出発したとされています。崇神12年9月に「戸口を調査し課役を科す」とあり、税制を施行しました。農業の振興にも力を入れ、崇神62年7月2日の(みことのり)で、農業用水を確保することを目的とし、各地にため池を作ることを命じました。

 

10月に依網池(よさみのいけ)を、11月に苅坂池(かりさかのいけ)反折池(さかおりのいけ)を作らせています。崇神65年7月、蘇那曷叱知(そなかしち)が、任那国(みまなのくに)から朝貢のため来朝し、帰国する際(垂仁天皇2年)に、天皇は任那王への朝貢として、赤絹を100匹(1匹は織物2反に相当)を持たせました。しかし帰国の途中、新羅(しらぎ)でこれを奪われてしまいます。これが任那と新羅の争いの始まりであったとする説もあります。

 

崇神68年(紀元前30年)に118歳で崩御。日本書紀による諡号は、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいそにえのすめらみこと)です。陵は、山辺道勾岡上陵(やまべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)とされています。奈良県天理市柳本にあって、墳丘長242メートルの前方後円墳です。行燈山古墳と呼ばれています。

 

 

第11代 垂仁天皇(すいにんてんのう)

第11代 垂仁天皇(すいにんてんのう)

画像:垂仁天皇Wikipedia

 

崇神天皇29年(紀元前69年)に、崇神天皇と御間城姫命(みまきひめのみこと)との間に生まれた第3皇子です。最初に皇后とした狭穂姫命(さほひめのみこと)は、兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)が起こした叛乱によって、兄と共に焼死したとされています。これは狭穂彦王の叛乱(垂仁4~5年)と呼ばれ、古事記で詳しく語られています。

 

垂仁天皇の皇后となっていた狭穂毘売(さおびめ)はある日、兄の狭穂毘古(さおびこ)から、「お前は天皇と私どちらを大切に思っているか」と問われました。狭穂毘売が深く考えもせず、「兄のほうを大切に思っています」と答えると、狭穂毘古は子紐のついた短刀を妹に渡し、天皇を暗殺するようにと言いつけました。

 

狭穂毘売は兄のいいつけを断ることができず、姫の膝枕で眠っている天皇に、短刀で切りつけようと試みました。しかし日ごろから天皇の寵愛を受けていた姫は、どうしても刀を振り下ろすことができません。思わず涙をこぼしてしまいました。

 

目が覚めた天皇は、「小さな蛇が私の首に巻きつき、佐保(狭穂)の方角から大雨が降ってきて、頬が濡れた夢を見た。これは何の前触れだろうか」と姫に問われました。

 

姫はたまらず、夫を暗殺しようとしたことを正直に打ち明けると、天皇は姫を深く愛していましたので、「おまえには罪はない」と言われました。一方天皇は、忠臣の八綱田(やつなだ)に、叛乱者である狭穂毘古の討伐を命じます。狭穂毘古は稲の束を積み重ねた砦(稲城)に籠って、八綱田と戦いを続けました。しかしひと月過ぎても一向に降伏するきざしはありません。

 

狭穂毘売はある決意をして、すでに生まれていた赤子を抱き、宮中を出て兄の砦に行ってしまいます。天皇は姫を奪還しようと説得を試みますが、かないません。ついに八綱田が砦に火を放つと、赤子を引き渡すために砦から出てきた姫は、髪をすっかり剃り上げた姿になっていました。

 

天皇は、姫が自害を決意したことを理解します。天皇は「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねました。姫は「火の中で産んだのですから、本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)と名付けてください」と答えました。姫はまた、「丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)に、兄比売(えひめ)弟比売(おとひめ)という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民ですから、私の代わりに身の回りのことを申し付けてください」と言い残し、砦に戻っていきました。天皇が姫を見届けると、姫は炎に包まれた稲城の中で、兄と共にこの世を去っていきました。

 

狭穂姫命の遺志を継いで、丹波道主命の息女、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が後宮に招かれ、垂仁15年8月に皇后となりました。垂仁天皇28年、天皇は殉葬禁止の令を出されました。

 

同年に亡くなった天皇の同母弟である倭彦命(やまとひこのみこと)は、11月2日に身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬られました。

当時の風習として、故人に仕える者達は、被葬者と共に生き埋めにされるのが普通でした。

 

倭彦命の死でもそれは同じでしたが、彼らは何日も死ぬことができず、呻き声が土中から聞こえました。

やっと死んだかと思えば、その腐臭はひどく、野良犬や鳥が腐肉をあさって辺りをうろつく始末です。

 

天皇はこれを大変哀れに思い、殉死の慣習を止める詔を出したとされています。

 

垂仁天皇32年7月に皇后日葉酢媛命が亡くなった際に、天皇は群卿(ぐんけい)野見宿禰(のみのすくね)の進言に従って、生きた人間の代わりに埴輪を作って

埋葬することにしたと伝えられています。

 

垂仁天皇90年2月1日、不老不死の力があるといわれのある非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰らせるために、

田道間守(たじまもり)常世国(とこよのくに)に派遣しました。

 

非時香菓はタチバナ(橘)とも呼ばれ、小さなミカンのような実をつける日本固有の草木です。

常緑樹であることから「永遠の命の象徴」として考えられていました。

 

垂仁天皇99年(紀元70年)7月1日、天皇は崩御しました。

140歳まで生きたことになります。田道間守はその翌年3月12日に非時香菓の枝を持ち帰りましたが、間に合いませんでした。

天皇の崩御を知って、自ら命を絶ったと伝えられています。

 

日本書紀による諡号は、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)です。

 

陵は、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)で、奈良県奈良市尼辻西町にあります。

宝来山古墳(ほうらいさんこふん)と呼ばれ、墳丘長227メートルの巨大な前方後円墳です。

 

第12代 景行天皇(けいこうてんのう)

第12代 景行天皇(けいこうてんのう)

画像:景行天皇Wikipedia

 

垂仁天皇56年(紀元前13年)に、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)との間に生まれた第3皇子です。

 

最初の皇后は、播磨稲日大郎姫(はりまのいねびのおおいらつめ)で、その間に生まれた皇子小碓尊(おうすのみこと)は、後に日本武尊(やまとたけるのみこと)となる人物です。

 

景行52年5月4日に播磨姫が崩御した後、同年7月7日に八坂入媛命(やさかいりひめのみこと)を皇后に迎えました。

八坂入媛命との間には12人の子を授かったとされています。

また、多くの妃との間に子をもうけ、記録に残っていない子を含めると80人もの子供がいたと伝えられています。

 

景行12年8月、熊襲(くまそ)(九州南部の豪族)の反乱を征伐するため、西方に向かって出発しました。

豊後国(ぶんごのくに)(大分県)で土蜘蛛(つちぐも)(朝廷に従わない豪族の総称)を討伐して、日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)に入り、景行13年に熊襲を平定しました。

その後も九州にとどまり、景行19年9月に都に戻ったとされています。

 

景行27年に再び熊襲の叛乱が起きた時は、皇子の日本武尊(やまとたける)を討伐に向かわせました。

 

日本武尊は景行40年に、蝦夷(えみし)(東北から北海道)の征伐も行っています。

この時は伊勢神宮で倭姫命(やまとのひめみこ)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かり、戦うことなく蝦夷を制定したとされています。

草薙剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいわれる三種の神器のひとつで、熱田神宮の御神体として現在まで伝えられています。

 

日本武尊は蝦夷平定から帰都する途中、胆吹山(伊吹山のこと)を越えるときに病にかかり、景行43年に三重県あたりで亡くなったとされています。

 

景行60年(紀元130年)に崩御。143歳まで生きたことになります。

日本書紀による諡号は、大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)です。

 

(みささぎ)山辺道上陵(やまのべのみちえのみささぎ)とされ、奈良県天理市渋谷町にあります。

渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と呼ばれ、墳丘長300メートルの巨大な前方後円墳です。

 

第13代 成務天皇(せいむてんのう)

第13代 成務天皇(せいむてんのう)

画像:成務天皇Wikipedia

 

景行天皇14年(紀元84年)に景行天皇と皇后八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)との間に生まれました。

 

皇后の記録はなく、妃との間に子をもうけましたがいずれも後継となっていません。異母兄である日本武尊の子が、

次の第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)となっています。

 

武内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣とし、地方行政を整えることに尽力しました。

成務5年に国内を国郡(くにこおり)県邑(あがたむら)に区分し、造長(くにのみやっこ)稲置(いなぎ)などの官職を定めて地方を治めさせたとされています。

 

成務60年(紀元190年)に106歳で崩御しました。

日本書紀による諡号は、稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)です。

 

(みささぎ)は、狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)で、奈良県奈良市山陵町にあります。

佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)と呼ばれる墳丘長218メートルの前方後円墳です。

 

第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

画像:仲哀天皇Wikipedia

 

成務天皇18年(紀元96年)、日本武尊命(やまとたけるのみこと)両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)(垂仁天皇の皇女)との間に生まれた第2子にあたります。

 

皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)で、神功皇后(じんぐうこうごう)として有名な傑女です。

 

仲哀8年9月、仲哀天皇と神功皇后が、熊襲討伐を占うために香椎宮(かしいぐう)を訪れると、神功皇后が神がかりして、

「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅(しらぎ)を征討せよ。

我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」とお告げを受けました。

 

仲哀天皇はこれを信じず、熊襲の討伐に向かいました。

しかし天皇は敗れ、撤退します。

そして翌年の仲哀9年2月に香椎宮で急死してしまいました。

皇后らはこれを「神の言うことを聞かなかったからだ」としました。

 

仲哀天皇の急死後は、神功皇后が摂政を行いました。

今度は住吉大神で神がかりし、再び新羅討伐の託宣を得ました。

 

皇后は対馬から軍船を出して、朝鮮半島に出兵します(三韓征伐)。

このとき、神功皇后は仲哀天皇との子を妊娠していたとされ、それが後の応神天皇となります。

 

仲哀天皇には、妃の大中姫命(おおなかつひめのみこと)との間に2人の子、麛坂皇子(かごさかのみこ)忍熊皇子(おしくまのみこ)がすでにいました。

彼らは神功皇后が応神を生んだことを知ると、皇位を奪うため反乱を起こしました。

しかしこれは武内宿禰らに討伐されています。

 

仲哀9年(紀元200年)に104歳で崩御しました。

日本書紀による諡号は、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)です。

 

陵は、惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)とされています。

大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にあって、岡ミサンザイ古墳と呼ばれています。

墳丘長242メートルの前方後円墳です。

 

第15代 応神天皇(おうじんてんのう)

第15代 応神天皇(おうじんてんのう)

画像:応神天皇Wikipedia

 

仲哀天皇9年(紀元200年)、仲哀天皇と神功皇后との間に生まれたとされています。

しかしこれには異論もあって、皇后に仕えていた武内宿禰(たけのうちのすくね)が父親であるとの説もあります。

 

新羅討伐に向かう神功皇后の胎内にいたとき、すでに天皇となる運命にあったので、「胎中天皇」ともいわれます。

 

皇后は仲姫命(なかつひめのみこと)で、間に生まれた大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)が、後に第16代仁徳天皇となります。

 

神功皇后は「三韓征伐」で勝利をおさめた後、九州の地に帰国し、筑紫で応神を出産しました。

 

応神の出生を聞いて、異母兄弟であった麛坂皇子(かごさかのみこ)忍熊皇子(おしくまのみこ)は、皇太子の地位が奪われることを怖れ、反乱を企てます。

 

皇后と応神らは宮中に帰還するため、瀬戸内海に出て畿内を目指しました。

このとき幼き応神を抱いていたのが武内宿禰と言われています。

 

麛坂と忍熊の皇子らは、播磨赤石(兵庫県明石市)に軍を配置し、神功皇后らを待ち伏せしました。

ところが戦いの成否を占う狩りを行った時に、麛坂皇子が猪に襲われて死亡するという事件が起きます。

不吉を感じた忍熊皇子はここで後退してしまいました。

 

いったん退いた皇子軍は、宇治(京都)で再び、神功皇后を待ち受けます。

皇后軍は武内宿禰と武振熊(たけふるくま)らの優れた戦略によりこれを迎え撃ち、皇子軍を逢坂(滋賀県大津市)で敗退に追い込みました。

皇子らは瀬田川に身を投げて自害を遂げます。

 

神功皇后の勝利に終わったこの内乱ですが、もともと正当な王位継承権は、麛坂皇子と忍熊皇子の方にあったとする説もあります。

反乱を起こしたのはむしろ神功皇后らであって、本来の王位継承者が応神天皇らによって乗っ取られ、王朝が佐紀から河内(大阪東南部)に

移されたとする説です。

 

応神14年から応神16年にかけて、弓月君一族を朝鮮半島から日本に帰還させたとされています。

弓月君一族は、秦の始皇帝の末裔とされ、秦氏(はたうじ)を名乗っていました。

彼らの渡来によって、日本に養蚕(ようさん)機織(はたお)りの技術が伝えられました。

 

日本書紀の応神11年10月条に「剣池・軽池(かるのいけ)鹿垣池(ししかきのいけ)厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」との記述があります。

土木工事に力を入れ、灌漑用の池を多く作りました。

 

古事記は、応神天皇の時代に百済の照古王(しょうこおう)が、阿知吉師(あちきし)和邇吉師(わにきし)を使者として遣わし、刀や大鏡と共に雌雄の馬各1頭と

「論語」「千字文」を応神天皇に献上したと書いています。

 

日本書紀の応神16年には、応神天皇の皇太子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、百済の王仁(わに)を師匠として、諸々の書物を学んだことが書かれてあります。

これが日本に儒学が伝えられた最初とされています。

 

菟道稚郎子は王位継承権を持つ皇太子でしたが、応神天皇が崩御した後、16代仁徳天皇に皇位を譲るため、自ら命を絶ってしまいます。

 

また、応神20年9月には、阿知使主(あちのおみ)が一族を連れて来帰したとあり、応神政権が多くの渡来人を受け入れていることが伺えます。

 

応神43年(紀元312年)に112歳で崩御したとされています。日本書紀による諡号は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)です。

 

応神天皇の(みささぎ)は、大阪府羽曳野市にある誉田御廟山古墳(ごんだごびょうやまこふん)で墳丘長425メートルの前方後円墳です。

仁徳天皇が眠る大仙陵古墳(墳丘長525メートル)につぐ日本第2位の大きさを誇ります。

 

第16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)

第16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)

画像:仁徳天皇Wikipedia

 

神功皇后の摂政57年(紀元257年)に、応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと)との間に生まれた第4皇子です。

 

仁徳天皇には4人の皇后がいたとされ、そのうちの一人が磐之媛命(いわのひめのみこと)(古事記では石之日売命)です。

応神天皇の時代に活躍した武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫にあたります。

 

武内宿禰は、三韓征伐から帰った神功皇后が九州から畿内に向かうときに、生まれたばかりの応神を抱いて、

麛坂皇子と忍熊皇子の反乱軍と戦った人物です。

皇族ではありませんが、数々の功績を買われて皇族の信頼厚く、その孫が初めて皇族外から迎える皇后となった所以かもしれません。

 

古事記には、「その太后石之日売命、(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき……」とあり、石之日売命(磐之媛命)は非常に嫉妬深い人物として記録に残されています。

この時代、天皇は皇后のほかに(みめ)が複数いるのが普通でしたが、皇后が宮殿にいないときしか他の妾と会うことができなかったといわれています。

 

古事記 仁徳三十年(342年)、皇后 石之日売命(磐之媛命)が酒宴の準備のために紀伊の国に出かけている隙に、夫の仁徳天皇が、

八田皇女(仁徳の異母妹で後の仁徳の皇后)を宮中に入れたことに怒り、宮中を出て行ったと記されてあります。

石之日売命は筒城宮(つつきのみや)にこもって、天皇が面会に来ても会うことなく、ひとり生涯を終えたとされています。

 

仁徳天皇は後に八田皇女を皇后に迎えますが、その妹である女鳥王(めどりのみこ)にも求婚していました。(意外と好色です)

しかし、女鳥王は石之日売命の嫉妬深さを怖れたのか、さっさと速総別王と結婚してしまいます。

それに怒った仁徳天皇は、山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)に命じてこの二人を殺してしまいました。(かなり残酷です)

 

これを知った石之日売命(磐之媛命)は、酒宴の席で山部大楯連に因縁をつけ、山部を死刑にしたと記されています。

女性関係のトラブルが多かった仁徳天皇ですが、公共事業にも力を注いでいました。

 

大和王権は瀬戸内海を重要な海路と位置づけ、内海に面した難波の地に新しい都を築きましたが、宮殿の周辺は草香江(くさかえ)と呼ばれる湿地帯がひろがり、

しばしば洪水や高潮の被害に悩まされていました。

 

仁徳11年、草香江の水を難波の海に排出するため、仁徳天皇は新しい水路を掘削します。

出来上がった水路は「難波の堀江」と名付けられました。

 

また、これと時期を同じくして、淀川に「茨田堤(まむたのつつみ)」を築造しています。

これは草香江に流れ込む淀川分流の水量を安定させることを目的としており、全長20kmにわたって築かれました。

茨田堤は現在もその痕跡をとどめており、河内平野を流れる古川沿いに見ることができます。

 

堀江の開削と茨田堤の築造は、日本で最初の大規模な土木工事とされています。

 

次に仁徳天皇の逸話として有名な「民のかまど」を紹介しておきます。

 

仁徳4年2月6日、天皇は「高台に登って見渡すと、家々から煙が上がっていない。民は煮炊きする米すらないのだろう。

(中略)民は困窮しているのだ。都の地でさえこのありさまなのだから、遠方の国々ではさらに貧窮しているのではないだろうか」と

群臣に問われました。

 

仁徳4年3月24日、天皇は「この日から三年間、租庸調のすべての税を免除し、民を困窮から救うのだ」と宣されました。

 

実際、この日から皇室では、衣服や靴は破れるまで着続け、食事も簡素なものにし、宮殿の隙間から雨風が入ってきても修繕しませんでした。

 

三年の間、気候が安定したこともあって、秋は豊作となり、民の生活は豊かになっていきました。

炊飯の煙もかしこで見られるようになります。

 

仁徳7年4月1日、税の徴収を止める詔から三年が経っていました。

天皇が高台から見下ろすと、家々から炊飯の煙が立ち上っています。

天皇は皇后に語りかけました。

「国は豊かになった。もう何も心配することはない」

 

それに対して皇后は「宮殿の屋根は雨漏りがし、塀は崩れてみすぼらしいかぎりです。

これのどこが豊かとおっしゃられるのか」と答えられました。

 

天皇はこのように諭されます。

「君主というのは民のためにあるのだ。

古き時代の王は、飢えたり凍えたりする民がひとりでもいれば、自らをいさめ、政策を改めたものだ。

民が貧しいということは、王もまた貧しいということなのだ」

 

仁徳7年9月、民のほうから申し出がありました。「三年間、税を免除していただいたおかげで、日々食べるものには困らず蓄えもできるようになりました。民の心も豊かになってきております。税の徴収をお始めになって宮殿を修繕して下さい。さもなければ我々に罰が当たってしまいます。」

 

しかし、それでも天皇は税の免除を続けました。

 

仁徳10年10月、税を徴収しなくなってから6年後のこと。

やっと天皇は租庸調の税を命じられました。

民は自ら進んで宮殿の修繕工事に加わり、木材や土を運んだとされています。

仁徳天皇が聖帝(ひじりのみかど)と呼ばれる所以(ゆえん)です。

 

仁徳87年(紀元399年)に崩御したとされています。生年から計算すると142歳です。

日本書紀による諡号は、大雀命(おほさざきのみこと)です。

 

陵は、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に比定されています。

大阪府堺市堺区大仙町にある前方後円墳で、仁徳天皇陵または大仙陵と呼ばれます。

墳丘長525メートルは日本最大です。

 

第17代 履中天皇 りちゅうてんのう

 

仁徳天皇24年?(紀元341年)に、仁徳天皇と皇后磐之媛(いわのひめ)の間に生まれました。

 

仁徳天皇が崩御すると、第一皇子であった去来穂別(いざほわけ)(後に履中天皇となる)は、黒媛(くろひめ)を妃に迎えようとし、弟の吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣わせました。

 

しかし、吉仲皇子は黒媛に会うとその魅力に取りつかれてしまい、兄の名を騙って黒姫と関係をもってしまいます。

(自分で行かず弟に行かせたのが悪い?)

 

吉仲皇子はことが発覚するのを恐れ、宮中に火をつけ兄を殺そうとしました。

去来穂別は辛くも脱出し、大和に難を逃れます。

 

去来穂別は、瑞歯別(みずはわけ)(後に反正天皇となる)に、叛乱者である弟の殺害を命じました。

吉仲皇子は、厠に入ったところを矛で討たれたとされています。

 

黒姫との間には2人の皇子と皇女がひとり授かりました。

黒姫が亡くなった後、応神天皇の皇女である草香幡梭皇女(くさかのはたびめのひめみこ)を次の皇后に迎えています。

 

在位期間はわずか6年で、古事記によれば64歳(紀元405年)で崩御したとされています。

日本書紀による諡号は、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)です。

 

(みささぎ)は、百舌鳥耳原南陵(もずのみみひらのみなみのみささぎ)で、大阪府堺市西区石津ヶ丘にあります。

上石津ミサンザイ古墳と呼ばれ、墳丘長365メートルの前方後円墳です。

 

第18代 反正天皇 はんぜいてんのう

 

仁徳天皇24年?(紀元351年)に、仁徳天皇と皇后磐之媛(いわのひめ)(いわのひめ)の間に生まれた第3皇子です。

履中天皇の皇后黒姫と関係をもってしまい討伐された吉仲皇子は、同母兄にあたります

 

多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)の名があり、歯並びが良く容姿も端麗であったと伝えられています。

 

皇族から妻をめとらなかったため、皇位を継承する子孫はできませんでした。

天下泰平の世の中、反正5年(紀元410年)にわずか5年の在位で崩御したとされています。

 

(みささぎ)は、百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)とされています。

大阪府堺市堺区北三国ヶ丘にあって、田出井山古墳と呼ばれています。

墳丘長148メートルの前方後円墳です。

 

第19代 允恭天皇 いんぎょうてんのう (~紀元453年)

第19代 允恭天皇 いんぎょうてんのう (~紀元453年)

画像:允恭天皇Wikipedia

 

仁徳天皇64年?(紀元375年)に、仁徳天皇と磐之媛命(いわのひめのみこと)の間に生まれた4番目の皇子です。

 

皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)との間に、5男4女を授かりました。

第3皇子の穴穂皇子(あなほのみこ)が後に安康(あんこう)天皇に、第5皇子の大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ)が後に雄略(ゆうりゃく)天皇となっています。

 

第1皇子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は、允恭天皇の後継となるはずでしたが、妹である第2皇女の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)と関係ができてしまい、

その罪を問われて皇位継承権をはく奪されてしまいました。

軽大娘皇女は伊予国に流され、木梨軽皇子は穴穂皇子(あなほのみこ)によって討伐されたと伝えられています。

 

また第4皇子の八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)は、兄の安康天皇が暗殺された事件への関わりを疑われ、弟である雄略天皇によって

生き埋めにされたといわれています。

 

允恭天皇4年9月、甘樫丘で盟神探湯(くがたち)を行ったという記録が日本書紀に残っています。

盟神探湯とは煮えたぎった湯の中に手を入れさせ、無事であったものは正しく、大やけどを負ったものは罪があるという古代の裁判です。

 

偽りの(うじ)を名乗る者が増え、世の中が乱れてきたことを憂いた允恭天皇が行ったとされています。

罪があるものは火傷を怖れて前に進めなかったので、正邪がすぐに分かったと伝えられています。

 

允恭42年(紀元453年)に78歳で崩御。

日本書紀による諡号は、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)です。

 

(みささぎ)は、惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)とされ、大阪府藤井寺市国府にあります。

市野山古墳と呼ばれ、墳丘長228メートルの前方後円墳です。

 

第20代 安康天皇 あんこうてんのう (~456年)

第20代 安康天皇 あんこうてんのう (~456年)

画像:安康天皇Wikipedia

 

履中天皇2年、允恭天皇と忍坂大中姫の間に生まれた第3皇子です。

 

皇后に迎えた中磯皇女(なかしのひめみこ)は、16代仁徳天皇の皇子である大草香皇子(おおくさかのみこ)の妃でした。

安康元年2月、大草香皇子は虚偽の報告をした罪で安康天皇に殺害されます。

 

主を殺された中磯皇女は安康天皇は妃となった後、安康天皇2年1月に皇后につきました。

しかし、安康天皇は少し無防備だったようです。

 

殺害された大草香皇子と中磯皇女の間には眉輪王(まよわのおおきみ)という子が生まれていました。

安康天皇3年8月9日(56歳)、この眉輪王によって天皇は中磯皇女の膝枕で寝ていたところを仇討(あだうち)されたとされています。

 

子は授からず、皇位を継承する子孫はできませんでした。

 

(みささぎ)は、菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)とされています。

古城1号墳と呼ばれる方形の墳丘です。

奈良県奈良市宝来にあります。

 

第21代 雄略天皇 ゆうりゃくてんのう (418年~479年)

第21代 雄略天皇 ゆうりゃくてんのう (418年~479年)

画像:雄略天皇Wikipedia

 

允恭天皇7年12月(紀元418年)、皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)との間に生まれた第5皇子です。

 

暴君として知られ、大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)とも呼ばれました。

皇位を得るためには肉親でさえも殺害するという残酷な性格で、次のようなエピソードが遺されています。

 

まず、大泊瀬皇子(即位前の仁徳天皇)は、允恭天皇の第4皇子であった八釣白彦(やつりのしらひこ)皇子を、安康天皇暗殺の黒幕として生き埋めにしてしまいます。

 

次に、允恭天皇の第2皇子であった坂合黒彦(さかいのくろひこ)皇子にも、安康天皇暗殺の疑いをかけます。

恐れをなした坂合黒彦は、眉輪王(まよわのおおきみ)と共に宮中を逃れ、葛城円(かつらぎのつぶら)によって匿われましたが、大泊瀬皇子に火を放たれ、眉輪王、葛城円と共に

焼死してしまいました。

 

また、安康天皇が皇位を継承させようとしていた市辺押磐(いちのへのおしは)皇子と、その弟である御馬皇子(みまのみこ)にも罪を着せて殺害します。

 

このようにして、競争相手を殺害して一掃した大泊瀬皇子は、皇位を継承しました。

 

雄略天皇は地方の豪族に対しても、強力な支配力でもって屈服させ、中央集権支配を確立しようとしました。

 

大和葛城地方の有力な豪族であった葛城円は、眉輪王を匿った首途で殺害され、葛城氏の勢力は没落していきました。

雄略天皇は葛城円の娘、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)を妃に迎えていますが、葛城氏の叛乱を抑える人質としての目的があったと思われます。

 

また、最大の地方勢力であった吉備氏も弱体化に追い込んでいきます。

 

雄略天皇7年、天皇は吉備上道田狭(きびのかみつみちのたさ)任那(みなま)に派遣している間に、美しいことで知られた田狭の妻の稚媛(わかひめ)を奪ってしまいました。

 

さらに、吉備上道弟君(きびのかみつみちのおときみ)吉備海部赤尾(きびのあまのあかいお)を任那に派遣し、田狭に叛乱の罪を着せて討伐しようとします。

 

このことを知った田狭は、任那にやってきた弟君らを説得し、味方につけようとしましたが、弟君はその妻に殺害されてしまいます。

田狭は難を逃れるために逃亡し、行方知れずとなったと伝えられています。

 

雄略天皇13年8月には播磨国の文石小麻呂、18年8月には伊勢国の朝日朗を滅ぼしたとの記録もあり、

雄略天皇が地方勢力を一掃しようとしたことが伺えます。

 

実際、雄略天皇の支配下にあった5世紀末ごろから、地方の大型前方古墳が姿を消しており、中央集権体制が加速していったことを裏付けています。

 

皇后は、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)で仁徳天皇の皇女。雄略天皇は草香幡梭姫に結婚を申し込む道すがら、見つけた志貴県主(しきあがたぬし)の館が皇居に似ていると

言いがかりをつけ、手に入れた白犬を手土産にしたと伝えられています。

少し変わった性格だったようです。

 

雄略天皇23年8月(紀元479年)に病のため61歳で崩御したとされています。

日本書紀による諡号は、大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)です。

 

(みささぎ)は、丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)です。宮内庁によって、大阪府羽曳野市島泉にある島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)または高鷲丸山古墳(たかわしまるやまこふん)

それと比定されています。

 

直径75メートルの円墳と、一辺が50メートルの方墳の2基で構成されています。強大な権力をふるった大王の墓としては意外にも小さいものですが、これは江戸時代、文久の修復事業で再構築されたもので、これが本当に雄略天皇のものかどうか、歴史学者の間では疑問視されています。

 

第22代 清寧天皇 せいねいてんのう (~484年)

 

允恭天皇33年、雄略天皇の第3皇子として、妃の葛城韓媛(かつらぎのからひめ)を母として生まれました。

 

生まれた時から白髪であったとされ、白髪皇子(しらかのみこ)と呼ばれたと伝えられています。

 

皇后や妃をとらず、子もいなかったので、履中天皇第1皇子の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子、億計王(おけのみこ)弘計王(をけのみこ)の兄弟を宮中に迎え入れ、

後継とすることにしました。弘計王が23代の顕宗(けんそう)天皇に、億計王が24台の仁賢(にんけん)天皇となっています。

 

清寧5年(紀元484年)、41歳で崩御したとされています。

日本書紀による諡号は、白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)です。

 

(みささぎ)は、河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)とされています。

大阪府羽曳野市西浦にあって、白髪山古墳と呼ばれています。

墳丘長112メートルの前方後円墳です。

 

第23代 顕宗天皇 けんぞうてんのう (450年~487年)

第23代 顕宗天皇 けんぞうてんのう (450年~487年)

画像:顕宗天皇Wikipedia

 

允恭天皇39年(紀元450年)、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこと)荑媛(はえひめ)の間に生まれました。

 

父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺害された後、兄の億計王(おけおう)と共に、丹波国与謝郡に逃れ身を隠していました。

兄弟ともに名も変えて、牛馬の飼育に従事していたとされています。

 

清寧天皇2年11月、宴の席で弘計王(をけおう)は自ら王族であることを明かします。

そして兄の億計王ともに、清寧天皇によって宮中に迎え入れられ、兄が皇太子、弟は皇子となりました。

 

皇位は兄の億計王が継承すると思われましたが、兄の強い説得に応じる形で、弟の弘計王が、顕宗天皇として即位することになったとされています。

濡れ衣を着せられて殺された父の雪辱(せつじょく)をはらすべく、雄略天皇の陵を破壊しようとしましたが、兄の億計王によって思いとどまったと伝えられていま

す。

 

顕宗3年(紀元487年)、38歳で崩御したとされています。諡号は、弘計天皇(をけのすめらみこと)です。

 

(みささぎ)は、傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)とされています。

奈良県香芝市北今市にある前方後円墳です。

また、奈良県大和高田市築山にある築山古墳も、顕宗天皇が葬られた墓であるとされています。

 

第24代 仁賢天皇 にんけんてんのう(449年~498年)

第24代 仁賢天皇 にんけんてんのう(449年~498年)

画像:仁賢天皇Wikipedia

 

允恭天皇38年(紀元449年)、市辺押磐皇子と荑媛の間に生まれました。

ひとつ下の弟である23代顕宗天皇が、在位わずか3年で崩御したため、兄が即位しました。

兄弟で皇位を継承した例は他にないとされています。

 

雄略天皇の皇女であった春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を皇后に迎え、6女1男をもうけています。

唯一の男子である小泊瀬稚鷦鷯尊(おばつせかささぎのみこと)が、後の武烈(ぶれつ)天皇になります。

 

父親(市辺押磐皇子)を殺した雄略天皇の皇女をなぜ自身の皇后にしたのかについては、諸説あります。

仁賢天皇は傍系の血族であるため、天皇の直系である春日大娘皇女を皇女とすることによって、天皇家の血筋を強固なものにするねらいがあったとする

のが通説となっています。

 

仁賢11年(紀元498年)、49歳で崩御しました。

諡号は大脚(おおし)または大為(おおす)です。

 

(みささぎ)は、埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)とされています。

大阪府藤井寺市青山にあり、ボケ山古墳と呼ばれています。

墳丘長122メートルの前方後円墳です。

 

第25代 武烈天皇 ぶれつてんのう (489年~506年)

 

仁賢天皇2年(紀元489年)、春日大娘皇女を母として生まれました。

後に武烈天皇となる皇太子は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)の娘である影媛(かげひめ)に惚れ、皇后に迎え入れようと結婚を申し込みました。

しかし影媛には、すでに平群鮪(へぐりのしび)と恋仲にありました。

 

皇太子はこれに腹を立て、また平群鮪の父親である平群真鳥(へぐりのまとり)が仁賢天皇の死後、政権を牛耳っていたことも気に入らなかったため、

大伴金村(おおとものかねむら)に命じて、平群鮪と平群真鳥の親子を殺してしまいます。

 

武烈天皇はその後に即位しますが、暴君として君臨します。

日本書紀には、「悪業に明け暮れ、善業はひとつも行われなかった。

残酷な刑が行われない日はなく、国民は震え上がっていた。」

「宮中への勤務はいい加減になり、女たちを集めて酒と淫靡な音楽にひたり、国民を顧みることはなかった」という内容が書かれてあります。

 

また、その極悪非道ぶりは日本書紀によって次のように伝えられています。

 

武烈2年9月、妊婦の腹を裂いて、胎児を取り出した。

武烈3年10月、手の爪をひき剥がし、芋を掘らせた。

武烈4年4月、頭髪をむしりとって木に登らせ、登り終えたところでその木を切り倒し、落下させて殺した。

武烈5年6月、用水につき落として、流れてくるところで三刃の矛(ほこ)をもって待ち受け、刺殺した。

武烈7年2月、木に登らせておいて、弓を放って射ち落とした。

武烈8年3月、女を裸にして板に座らせ、馬の交尾を見せた。

陰部を濡らした者は殺し、濡れなかった者は官奴(奴隷のようなもの)にした。

 

これら悪行ともいえる行為は、日本書紀にのみ見られるもので、古事記には一切書かれてありません。

このことから、武烈天皇の悪行に関わる逸話だけでなく、その実在さえも疑問視する説が少なからず存在しています。

 

武烈8年(紀元506年)に崩御したとされており、わずか18歳で亡くなったことになります。

日本書紀による諡号は、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさぎのみこと)です。

 

陵は、傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)とされています。

奈良県香芝市今泉にあって、自然の地形を利用した山形の古墳となっています。

 

第26代 継体天皇 けいたいてんのう (450年~531年)

 

25代武烈天皇が子孫を残さずに亡くなったため、丹波国にいた仲哀天皇の5世孫にあたる倭彦王(やまとひこおおきみ)に王位継承させようと使いの兵を出しました。

 

しかし、倭彦王は恐れをなして山中に隠れてしまったとされています。

 

そこで、越前国を統治していた応神天皇の5世孫にあたる男大迹王(おどとのきみ)を説得し、継体天皇として即位させることができたと伝えられています。

 

24代仁賢天皇の皇女であった手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えました。

 

継体天皇には越前国にいた時代の妃が多数いましたが、天皇となってからは先代の武烈天皇の妹を皇后としています。

天皇家の血筋を強固なものにするための、政略的な意味があったと考えられます。

 

皇后との間に生まれた天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)が、後に欽明天皇となっています。

 

507年に即位してからも越前国にとどまり、大和に入って都を定める526年までに19年を要しているのは不可解であるとされています。

継体天皇に反抗する勢力が大和地方にあり、それらの制圧に時間を要したのではないかとの説もあります。

531年に皇子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)(後の安閑(あんかん)天皇)に皇位を譲位しました。

安閑天皇の即位と同じ日に崩御したとされています。

 

継体天皇は越前国を治めていた男大迹王の時代、大規模な治水事業を行い、九頭竜(くずりゅうがわ)川、足羽川(あすわかわ)、日野川の三大河川を造って、

湿原を豊かな穀倉地帯に作り変えました。

また、港を開いて海運にも力を入れたとされています。

 

日本書紀による諡号は、男大迹王(をほどのおおきみ)です。

 

陵は、三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)とされています。

大阪府茨木市太田にあり、太田茶臼山古墳と呼ばれています。

墳丘長227メートルの前方後円墳です。

 

また、大阪府高槻市郡家新町にある今城塚古墳は、その築造時期から見て、太田茶臼山よりも継体天皇陵である可能性が高いとされています。

こちらは墳丘長190メートルの前方後円墳です。

 

まとめ

 

以上、古墳時代に君臨した天皇たちを順番に見てきましたが、いかがだったでしょうか。やりたい放題の暴君だったり、おとなしく優しそうな天皇だったりと、さまざまな人間模様がわかって興味深いですね。肉親にあらぬ罪を着せて殺したり、また皇位を譲るために自ら命を絶ったりと、壮絶な皇位継承合戦があったようで、宮中の生活は思うほどのんびりしたものではなかったのかもしれません。

 

次回は、古墳時代の海外交易についてみていきたいと思います。

 

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M.SEKINE

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旧石器時代から宇宙探査機まで人類が行ってきたことを調べるのが好きです。 好きな歴史人物: 大黒屋光大夫(江戸時代に三重から江戸に向かう回船が嵐で遭難しアリューシャン列島に漂着、様々な困難を経てロシアのエカテリーナ皇帝との謁見を果たし、江戸に帰国した人物) 何か一言: 人類の功績を辿って記事にしていきたいと思っています。

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