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鳥羽伏見の戦い影の功労者ウィリアム・ウィリス【はじ三ヒストリア】

2018年11月20日


 

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日本の運命を決定した戊辰戦争(ぼしんせんそう)の前哨戦である鳥羽伏見(とばふしみ)の戦い、この時15000と薩摩軍の3倍の兵力を有していた筈の徳川幕府は惨敗し明治維新への流れは引き戻し不可になりました。

 

その本編はNHK歴史秘話ヒストリアを見て頂くとして、はじさんヒストリアでは、鳥羽伏見の戦いの裏で起きた日本の外科手術の始まりを紹介します。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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未曽有の戦傷者を出した鳥羽伏見の戦い

 

鳥羽伏見の戦いは、最新式の小銃と大砲による西洋式軍隊同士の激突でした。銃創や砲弾による負傷は、それまでの刀や槍傷による負傷とは全く違い出血ばかりでなく創口からの感染症や壊死など、それまでの日本の医師が

 

経験した事がない病状が多く出現しました。また、銃弾の摘出には、外科手術が必要でしたが、そもそも漢方医ばかりか蘭方医でさえ外科手術に習熟した人材がいなかったので負傷兵たちは、出血多量や感染症で続々と命を落としていきました。

 

この危機的な状況に手を打ったのが、大山巌でした。江川英龍の塾で銃術を学んでいた大山は、銃創の治療は英国医学が進んでいる事を知っていて当時、兵庫沖に停泊していた英艦隊に援助を求めたのです。ここで薩摩藩に派遣されたのが英国人医師、ウィリアム・ウィリスでした。

 

 

 

イギリス人医師ウィリス京都で外科手術を行う

ウィリアム・ウィリス

 

英国駐日公使パークスは、人道上の立場から病気見舞いという事で、医師ウィリアム・ウィリスと通訳官のアーネスト・サトウを派遣します。当時の日本では尊皇攘夷熱(そんのうじょういねつ)が最高潮に達しており、西洋人というだけでも出歩くのは危険でしたが鳥羽伏見の戦いの薩摩藩の病院は、京都相国寺内に存在していました。

 

本来なら汚らわしい西洋人を天皇の居る京都に入れる等とんでもないという状況でしたが、事情が事情なので西郷隆盛(さいごうたかもり)が藩主の島津忠義しまづただよし)を仲介し天皇から許可を取っています。こうして、ウィリスとサトウは、西洋人で初めて京都に入った人物という事になります。余談はともかく、ウィリスは京都相国寺内の薩摩藩野戦病院に2週間滞在し、薩摩藩の医師を助手に100名を数えた負傷兵の治療に当たります。

 

ウィリスは石炭酸を使用した手術室の消毒、外科手術に関してはクロロホルムを使い痛みを和らげるなど最新の外科手術を駆使して多くの負傷兵を回復させました。この相国寺でウィリスは首を貫通する銃創を負った西郷隆盛の弟、西郷従道(さいごうつぐみち)を治療して回復させています。また、酒豪で肝臓を病み大量の血を吐いた山内容堂の治療も行い、以後容堂は終生ウィリスを贔屓(ひいき)にするようになりました。

 

こんにちは西洋

 

 

戊辰戦争でもウィリスは従軍し敵味方なく治療を行う

 

ウィリスの外科手術は、薩摩にセンセーションを与え外科手術は大きな関心事になります。その後、戊辰戦争が江戸から北陸へ展開する中でもウィリスは請われて軍医として従軍。新政府軍は横浜に軍陣病院を開設、ウィリスは病院長として多くの医師を指導します。

 

東北戦争では、ウィリスは北越戦線病院に出動しますが、そこでウィリスは戦国時代さながらに敵の負傷兵を放置したり、憎しみから虐殺したりする兵士の蛮行に遭遇しました。ウィリスは博愛精神に基づき、敵味方の区別なく治療すべきと主張し官軍兵士のみならず、旧幕府軍から会津藩兵に至る全ての負傷者の治療に当たっています。ウィリスの活動は、日本に赤十字が発足する契機にもなりました。

 

 

数奇な運命の末に鹿児島で後進を育てる

 

戊辰戦争の多大な貢献で、明治天皇に謁見し感謝状と記念品を贈られるなど影響力を強めたウィリスですが社会的地位を奪われた蘭方医や一部政治家の思惑で、日本はイギリスからドイツ医学に方針転換し、東京医学校兼病院院長だったウィリスも立場が弱くなり辞職する事になりました。

 

1870年、ウィリスは西郷隆盛や医師石神良策の招きで鹿児島に渡り鹿児島医学校の校長兼医師として勤務します。西郷はウィリスを呼ぶのに900ドルの破格の月給を提示しましたが、これは、当時の総理大臣クラスの大久保利通の500ドルよりずっと高額でした。戊辰戦争で発揮されたイギリスの臨床医学を西郷は高く評価していたようです。

 

ただし鹿児島は、日本一頑迷で頑固な薩摩武士が支配する土地で英国嫌いも薩英戦争(さつえいせんそう)以来根強いものでしたウィリスは鹿児島武士の無理解に苦しみ、かなりの激論を繰り返したそうですがやがて、鹿児島で結婚し子供にも恵まれると次第に環境にも慣れていきます。

 

そして臨床医学ばかりでなく、公衆医学、予防医学を生徒に伝授していきました。鹿児島は西日本における医学の中心地になり他県からも生徒が集まり、その生徒数は、600人に到達したそうです。ウィリスの教え子には、英国留学して海軍軍医になり日露戦争で日本兵を苦しめた脚気(かっけ)を予防医学に根差した麦飯によって予防した高木兼寛(たかぎかねひろ)等がいます。

 

 

kawauso編集長の独り言

 

武器が近代化した幕末維新期においても、それに対応した外科手術については鳥羽伏見の戦いの頃でも十分に認識されていなかったんですね。もし、その時、英国艦隊にウィリスがいなかったら、鳥羽伏見の戦いや、その後の戊辰戦争の戦没者は、さらに増加したかも知れません。

 

ウィリスは、アーネスト・サトウがこんなに人情味のある人物を私は見たことがないと賞賛する程に理想的な医師であり戦闘の最中に銃弾で負傷した平民の老婆を士族の誰も顧りみようとしないのを率先して治療したり、会津戦争では、700人の負傷者を看る傍らで、困窮した会津の人々の為に出来る限り物資を回すよう手配をしています。

 

医師ばかりではなく、患者の傷のレベルにより看護人をつけ身の回りの世話をさせるなど患者の負担を取り除く努力もしていました。彼こそは、鳥羽伏見の戦いでの影の功労者と言えるでしょう。このあたり、歴史秘話ヒストリアに紹介されるかどうか分かりませんが、覚えておいて、損はないと思います。

 

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幕末のエンジニア達

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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