鎖国は悪ではない!平等社会を実現させた江戸幕府

2020年8月23日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

黒船(ミシシッピ号)

 

近年、歴史教書の改定が進み、「鎖国」という言葉が事実に即していないとして消えようとしています。実際に江戸時代には、長崎、薩摩、対馬、松前の4つの窓口を開き、オランダ、中国、朝鮮、アイヌを通じて外と交易をしていました。

 

安藤信正(幕末)

 

そのため鎖国というより、ヒトとモノの出入を幕府の統制下におく統制貿易という方が正しいでしょう。でも、ここには鎖国は悪であり開国は善であるという一方的な先入観があるように思います。そこで今回は「鎖国」がもたらした光の部分、江戸時代の平等社会について解説しましょう。

 

銀の産出量が減少し幕府は統制貿易に転じる

鉄甲船

 

徳川幕府が開いた頃の17世紀初頭は、アジア海域交易の全盛期でした。ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が積極的にアジアの海域に進出して香辛料、木綿、生糸、銀を交易品とする世界市場に強くコミットしていた時代だったのです。

 

祁山、街亭

 

17世紀初頭の日本の銀産出量はスペイン領のメキシコないしはペルーと肩を並べる程で鉱業の総産出高はGDPの4%もありました。しかし鉱山ブームは短く、銀の生産は1620年代にピークを迎えた後は急激に縮小していきます。そして、1630年代になると幕府は、後の歴史家から「鎖国」と呼ばれる法令を次々と出していきました。

 

もちろん、それは国を完全に閉ざす事を意味しません。

 

交易面では、四つの口が存在し、そこを通じてオランダ、中国、朝鮮、アイヌの商人と交易がなされました。しかし、人と物の出入りを幕府の統制下においた政策は、それまでの自由・無制限なアジア交易を決定的に縮小させ終焉(しゅうえん)させます。

 

実際に1630年以降貿易量は減少し19世紀初頭まで日本が事実上の閉鎖経済になったのは紛れもない事実だと抑えておく必要があります。

 

一時経済は停滞するが農業と非農業生産の増加で相殺

楽市楽座(日本史)

 

江戸幕府の閉鎖経済は、外国貿易の急減と人口増加という17世紀経済の大きな負担をもたらしました。しかし、これらのマイナス要因は、同じ時期に生じた農業産出量の拡大と都市化に牽引された非農産物の増加でほぼ相殺されます。

 

他方、生糸の輸入量減少により国内の絹織物産業が圧迫されますが、18世紀前半から国内の製糸業が再興し、各地で農村に現金収入をもたらす農村工業として定着し生糸の生産力は向上しました。この農村工業の興隆が新たな時代を特徴づける事になります。

 

ガンバレ徳川

 

江戸中期に格差縮小の動きが起きる

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

1721年頃に3000万人で人口の増加が止まると、人口の都市農村間の配分に変化が起きました。

 

都市人口統計を見ると、5万人以上の大都市に住む人口は1750年から1873年までに大幅に減少し、1万から5万人の都市は僅かに上昇。逆に2500人から1万人規模の小都市が大幅に増加しました。

 

にぎわう市(楽市・楽座)

 

通常、社会の格差が拡大すると大都市人口が増加し、逆に中小規模の都市人口は減少していきます。富が大都市に集中し仕事を求めて地方人口が大都市に移動するからです。

 

江戸時代の日本では、この逆の現象が起きたのですから社会の格差が縮小したという事になります。では江戸中期の日本では何が起きたのでしょう?

 

地方産業が興隆、都市同業者を圧倒

名古屋城

 

この都市人口の変化の背景には、地域間交易ネットワークに生じた構造変化がありました。18世紀の中葉からは、食品加工、製紙、繊維(せんい)などの産業が各地で興り拡大、地方の工業や商業が都市の同業者に競り勝つようになったのです。

 

馬に粘土を載せて運ぶ人(幕末時代)

 

特に大きな影響を受けたのが大坂を頂点とする流通システムで、18世紀前半までは、地方経済の産物は大坂問屋商人を通して大坂市場へ輸出され、そこからさらに江戸や他の消費市場に配送されていました。

 

大坂商人は、ここで中間搾取をするわけですが、1750年以降になると地方の荷主が、大坂の問屋を経由せず、江戸や他の地方都市と直接取引を開始したのです。その結果、江戸後期の全国流通システムは、江戸と大坂の2つをハブとする形へと再編されます。

 

どうして、こんな事が可能になったのか?

それは、全国の藩が財政改善の為に殖産興業を盛んにすべく、地元産業を支援して保護したからでした。

関所

 

さらに大きな理由は、当時300を超える藩があったにもかかわらず、大名が領国の境に税関を設ける事がなかった事です。関税障壁の無さは、地方の問屋が販売戦略を変更して再編するのを容易で簡単にしました。地方経済の台頭は、必然的に都市の大商人の富を減らす事になります。

商工業への課税はなく、農業生産の拡大で年貢率は低下

宋銭 お金と紙幣

 

こうして、地方の商工業は強化されますが、徳川幕府は農本主義の姿勢を換えず商工業への課税はほぼありませんでした。

 

また、年貢も実効税率が200年間も据え置きされたので、農業生産の増加に従い税率は傾向的に下落、幕府直轄領のデータではありますが、30%だった税率が16%から17%まで減少していました。

 

こうして、大坂の大商人と支配階級の武士の富が目減りし、その分が地方の工、商人、人口の70%を占める農民に還元されていき、江戸後期、日本社会の経済格差は縮小していったのです。

 

世界的に見ても格差が小さい江戸日本

お人好しな毛利敬親

 

この格差縮小の傾向は1840年代の長州藩の階層別世帯所得表でも確認できます。

 

このデータにより、人口の10%を占める武士の世帯所得水準が1.2に過ぎず、人口の75%を占める農村の世帯所得1.0に比較して20%の増加。人口比15%の都市の商工人口の1.1に比較すると僅かに9%の所得増に過ぎない事が分かります。

 

ローマ法王の尻に敷かれる貧乏な欧州の国王達

 

これに対し、1688年のイングランドの階層別の世帯所得表を見てみると、人口の5%を占めるイングランドの支配層の所得水準は7.3ですが、人口の44%を占める中産階級の所得水準は2.4と支配層は中産階級の3倍の所得を持ち、人口の51%を占める下層民の所得水準は0.8で支配層とは9倍の開きがあります。

 

データとしては、152年程の時間の開きがありますが、日本は世界に比較しても社会格差が小さい国であった事が分かります。

 

富を広く浅く分配した結果、農民は豊かに

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

江戸日本の経済格差の小ささは人口の大多数を占める農民所得の拡大をもたらしました。1990年の国際ドルの価値で比較したデータによると、西暦1600年、日本人1人あたりのGDPは659ドルでしたが、1721年には669ドルになり、1846年には896ドル、1874年には1011ドルに成長しています。

 

ちなみに生存維持に必要なドルの水準は400ドルですが、1846年の日本人1人あたりのGDPはその2倍以上あり、その頃までには庶民は衣食住以外にも、ある程度の支出を振り分ける事が可能になっていました。

 

江戸時代には、庶民がお金を積み立ててお伊勢詣(いせまい)りに向かったり、農閑期に近場の温泉で骨休めをする「泥落とし」が一般化しましたが、それは、富を広く薄く分ける幕府の平等政策によって実現されたと言えるのです。

疫病が蔓延している村と民人

 

もちろん、武士階級でも足軽から旗本、大名まで所得に格差がありましたし、地方の商工業者でも所得には開きがありました。しかし、人口の7割を占める農民という層の厚さを考えると、1846年で1人あたり896ドルというGDPは、江戸時代の格差がかなり小さい事を裏付ける数値と考えられます。

 

開国後格差は拡大する

幕末77-14_錦の御旗

 

逆に自由貿易に舵を切った開国後の日本では、格差が急速に拡大した事が分かっています。所得の不平等さを示すジニ係数は、日本では1890年代においてすでに0.43でしたが、昭和12年(1937年)には、それが0.57に急上昇しました。

 

この0.57という数値は2010年度のアフリカザンビアとほとんど同じ富の不平等を示しています。

 

そして、もう一つの所得格差を示すスーパーリッチ(納税者の上位1%層)の国民所得占有率を見てみると、その比率は1890年代には14%を少し下回る程度であったものが、1920年代前半には19%に上昇し、昭和恐慌で若干の低下を見たものの、すぐに回復し1938年には戦前期における最大値19.9%を記録しています。

 

このように明治維新後に、スーパーリッチの興隆があり国民所得の20%を占有するまでになったのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

鎖国を悪とする風潮には、貿易は自由であるべき!制限貿易は悪だという先入観が見られます。しかし、実際の国家は自国の産業を守る為に関税を高くしたり政府が産業を支援する事だってあるのです。

 

江戸幕府が、どこまで格差縮小を考えていたか分かりませんが、外国をほとんど排除して国内の人と物を統制した結果として、国内の所得格差は小さくなったのは事実です。

 

だから鎖国すべきとは言いませんが、自由貿易が所得格差を大きくする側面があるという事も考慮した方がいいとkawausoは考えます。

 

参考文献:世界史における日本の近世:長期の視点からみた成長・格差・国家

日本学士院会員 斎藤修

 

関連記事:【ざっくり解説】開国と攘夷って一体どういう思想なの?

関連記事:岩崎弥太郎とはどんな人?世界の三菱を築き上げた一代の政商の生涯

 

新選組

 

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso編集長

kawauso編集長

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

-幕末
-