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源氏と平氏はいつ歴史にデビューしたの?

2018年12月12日


 

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武家の代表と言えば、源氏(げんじ)平氏(へいし)だと思います。この二勢力が平安時代の末期以来、交互に政権を握る形で日本史を形作っていきました。しかし、名前はよく知っている源氏と平氏がいつ頃から歴史デビューしたのかを正確に説明できる人は少ないのではないでしょうか?そこで、今回のはじめての三国志では、源平の歴史デビューの瞬間を解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源平のサクセスストーリーは平将門の乱鎮圧から始まる

画像:平将門Wikipedia

 

よく知られているように、平氏の祖は桓武(かんむ)天皇の系統の平高望(たいらのたかもち)であり、源氏の祖は清和(せいわ)天皇を祖とする源経基(みなもとのつねもと)です。しかし、この二人の時代は、源氏も平氏も田舎で勢力を伸ばしている地味な勢力に過ぎず歴史の表舞台に浮上するまでには至っていませんでした。それを一変させたのは、935年の平将門(たいらのまさかど)の乱を発端とした承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱でした。

 

この戦いは、それまでの反乱と違い、平将門が朝廷の支配から離脱しようとし、新皇(しんこう)を名乗り独自の行政機構を整備しようとした事から京の公家勢力の衝撃は大きく、それだけに将門討伐に功績があった武士が高く評価され平貞盛が従四位下下野守(じゅうよんいげしもつけのかみ)に昇進。藤原秀郷(ふじわらのひでさと)従五位上左馬助(じゅうごいじょうさまのすけ)に任じられ、平将門の反乱を朝廷に告発した源経基も大宰少弐(だざいしょうに)に昇進しました。

 

 

武門の成立により官位に関係なく天皇と繋がる

 

その中で平貞盛は平高望の孫にあたり、源経基は源氏の始祖その人でした。この平将門の乱以後、朝廷は反対勢力の鎮圧を3名の子孫に頼るようになります。それは、朝廷の官位とは関係なく行われたので、源平の勢力は武力方面を朝廷から委託された存在になり武門の専門機関になるのです。

 

従来、軍を率いるのはそれなりの地位、例えば検非違使(けびいし)のような役職の人物でした。ですが貴族の門閥化により検非違使も就任できる人物が限られた役職になっていました。しかし、乱の鎮圧は実力が必要なので、官位にこだわると門閥というだけで無能な人物を派遣する事になってしまいます。

 

そこで、大規模反乱を教訓にして朝廷は官位に関係なく実力がある武士を追討使(ついとうし)に任命するのが常態化していく事になるわけです。それは、厚い門閥貴族の壁を飛び越えて天皇や上皇が直接、武士と繋がる事を可能にしやがて、武士が手柄を立てる事で天皇や上皇に寵愛され、官位を次々に与えられて現実政治でものしあがっていく遠因になりました。

 

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最初に出世競争でリードしたのは源氏

 

源氏と平氏の中で最初に出世競争を制したのは源氏でした。1028年に房総半島で発生した平忠常(たいらのただつね)の乱は、当初、検非違使の平直方(たいらのなおかた)中原成道(なかはらなおみち)が出兵しますが、直方は追討に失敗します。これを受けて、後任になったのが源頼信(みなもとのよりのぶ)で彼は追討使に任じられて忠常を討伐します。

 

 

 

彼は、源経基の子である源満仲の子で河内源氏の祖ですが、この頼信の系統から鎌倉幕府を開いた初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)が登場しています。この頼信の手柄で河内源氏の武名が轟き、さらに頼信の子、源頼義(みなもとのよりよし)、そして源義家(みなもとのよしいえ)は前九年の役・後三年の役で、東北の有力豪族である安倍氏(あべし)清原氏(きよはらし)を苦戦の末に討ち朝廷の支配を広げる事に貢献しました。

 

特に、源義家は、武士の長者、大将軍と呼ばれ、白河上皇(しらかわじょうこう)に寵愛され武士としては初めて昇殿を許され殿上人(でんじょうびと)になりました。しかし、義家の死後、義家の子である義親(よしちか)為義(ためよし)の時代になると河内源氏は同族内の内紛が起きて、一時は高まった源氏の武名も退潮を余儀なくされたのです。

 

 

 

伊勢平氏が巧みに朝廷に取り入り大出世

 

源義家の没後、白河院に取り入り寵愛を受けたのが平貞盛を祖とする伊勢平氏の平正盛(たいらのまさもり)平忠盛(たいらのただもり)でした。白川上皇は、源氏とのバランスを取る為に平氏を重用したのでしょうが、平正盛は、それをよく理解していて、大宰府を通じた海外貿易で蓄えた富を朝廷に献金する事によって白河上皇にとっては、なくてはならない金ヅルになります。

 

同時に平氏はしっかりと西国各地の受領に任命されて、領地経営を行い瀬戸内海の海賊退治でもしばしば武功を立てていき、伊勢平氏は西国の武士団を代表する大きな存在へと成長していくのです。

 

この平忠盛の子こそが日本史上最初の武家政権を確立した平清盛(たいらのきよもり)でした。天皇と上皇の勢力争いである保元(ほうげん)の乱、平治(へいじ)の乱に参加し巧みに勝ち抜いた清盛は、平治の乱で源氏のライバル、源義朝(みなもとのよしとも)を追い落として一強の体制を確立していき娘達を天皇の妃とする事で結びつきを強め武士で最初の太政大臣(だじょうだいじん)となり、さらに娘の生んだ親王を安徳天皇(あんとくてんのう)として即位させ、天皇の外祖父にまで上り詰め平家でなければ人間ではないと謳われる平家全盛時代を築きます。

 

 

河内源氏の源頼朝が平家を倒して源氏が武士の頂点へ

 

しかし、平清盛の強引な政治は、まだ力を残していた公家勢力や清盛に抑え込まれた後白河法皇の反発を買う事になります。清盛の晩年には、平治の乱で没落し地方に散った源氏の武装蜂起が頻発し、ついに清盛の死後、僅か4年で1185年、壇之浦(だんのうら)の戦いで平家一門が源氏の将軍、源義経(みなもとのよしつね)に敗北し政権は源氏の源頼朝の手に渡ったのでした。以来、建武(けんむ)の新政のような僅かな期間を除き、日本の政治は650年余りにわたり、源氏と平氏を中心とする武家同士による権力交替が繰り返されるようになるのです。

 

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

史上有名な源氏と平氏、この二つの勢力が歴史にデビューしたのは平将門の乱鎮圧で、その100年後の平忠常の乱で河内源氏が抜きんでていき、前九年・後三年の役で大活躍し、次には、白河上皇に取り入る形で伊勢平氏が巻き返して、保元・平治の乱後に権力を握ると同時に源氏を追い落として天下を手中に収めますが、最後は源平合戦で平家は壇ノ浦で敗れて、鎌倉幕府が成立する事になります。こうしてみると、平将門の乱こそが源平がデビューした記念すべき戦いと言えるでしょう。

 

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はじめての平安時代

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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