織田信長の父、織田信秀とはどんな人甘い所が信長ソックリ?


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戦国の風雲児、織田信長(おだのぶなが)、その信長の父が織田信秀(おだのぶひで)です。

とはいえ信秀については、息子の信長の輝きが強すぎて葬儀の時に位牌(いはい)に抹香をぶつけられた人そんなイメージしかない人もきっと多いはず。

ですが、この織田信秀、弱小の織田家を一つに纏めて戦国織田家の基盤を作った人でした。

 

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織田氏の歴史とは?

画像:織田家家紋Wikipedia

画像:織田家家紋Wikipedia

 

信秀の人生を辿る前に織田家の歴史について簡単に説明します。

 

織田一族は、越前国織田荘(えちぜんのくにおだしょう)にある劔神社(つるぎじんしゃ)忌部氏(いんべうじ)の流れを汲むそうです。

元々は、室町幕府の三管領(かんれい)斯波氏(しばし)の守護代でした。

その後、斯波氏が南北朝の騒乱で手柄を立てて尾張国を与えられると織田氏は尾張国の守護代(しゅごだい)となりました。

室町中期に斯波氏の間で家督争いが起き、そこから応仁の乱が勃発すると織田氏は斯波義廉(しばよしかど)について西軍となり

東軍の斯波義敏(しばよしとし)と戦う事になります。

 

混乱は続き守護代織田家は二分され、織田伊勢守家(おだいせのかみけ)(織田大和守家(おだやまとのかみけ)(が美濃国の斎藤妙椿(さいとうみょうちん)を介在させて果てしない抗争を繰り返します。

ここは室町幕府の再三の介入があり、伊勢守家と大和守家で尾張国を二分する事で和睦が成立します。

 

しかし、1494年の土岐氏(ときし)の相続争いから再び国内が混乱し、その隙を突いて斯波氏の所領の遠江(とおとうみ)今川氏親(いまがわうじちか)の配下だった

北条早雲(ほうじょうそううん)に奪われます。

当時の守護、斯波義達は奪われた遠江の奪還に燃えて遠征を繰り返しますが、そこに守護代、織田氏の姿はありませんでした。

この戦は織田氏にとってメリットがなく静観を決めたのです。

 

1515年、この斯波義達(しばよしたつ)が大敗北、捕虜になって尾張に送還されると国内の支持を失い失脚。

僅か3歳の斯波義統(しばよしむね)が当主になると斯波氏の権威は失墜しました。

このような中で急速に力をつけたのが、織田大和守家の系統の清州織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信(おだよしのぶ)織田信定(おだのぶさだ)父子でした。

この織田信定が信長の祖父であり、織田信秀の父でした。

 


 

織田信秀家督相続

織田信秀

織田信秀

 

織田信秀は、永正8年(1511年)尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城を支配する清州三奉行の一人、織田信定の長男として誕生します。

信定は、尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」に仕える庶流で主家の重臣、清州三奉行の一家で

弾正忠を称した家を継ぎました。

 

信定は、大永年間(1521~28年)にかけて勝幡城を築いて、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と津島神社の門前町として繁栄していた津島を支配し

同家の勢力拡大の切っ掛けを築きます。

信長の祖父の代から経済に着眼した人物がいたわけですね。

 

織田信秀は、15歳頃に家督を譲られ相続から間もない1532年、主家の織田達勝(おだみちかつ)と清州三奉行の一人小田井城の織田藤左衛門(おだとうざえもん)と争い融和しました。

ここで、信秀は和議を固めると同時に自己の財力を誇示する為に、7月に京都から蹴鞠(けまり)の宗家、飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)を招き勝幡城で蹴鞠会を開催し、

賓客を招き、100人の見物人を集め7月27日には、清州城に舞台を移して連日蹴鞠大会を催したそうです。

 

この辺り、経済の重要性と文化というものをよく理解している武将と言えます。

信長も治世では茶の湯を利用しましたが、その発想の元は信秀の蹴鞠会にあるのかも知れません。

 

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信長の野望 織田信秀勢力拡大期

織田信長

 

天文7年、1538年、26歳になった信秀は、今川氏豊(いまがわうじとよ)の居城の那古屋城を謀略で奪い、ここに勝幡(しょばた)から居城を移して勢力を拡大、

1534年にはこの城において、正室の土田御前との間に嫡子(ちゃくし)信長が誕生します。

さらに1539年には、古渡城(ふるわたりじょう)を築いて居城にし、二つ目の経済的な基盤になる熱田を支配しました。

信秀は信長に1546年に那古屋城を譲ると、1548年には、今度は末森城を築いて三度居城を移しました。

通常、戦国大名はあまり居城を動かす事がないのでこれは特異な戦略でした。

このようにして、蓄えた経済力を背景に信秀は上洛して朝廷にも献金し従五位下に叙位され備後守に任官されたり、足利義輝(あしかがよしてる)に拝謁したり、

伊勢神宮の式年遷宮の為に材木や銭七百貫文を献上します。

 

また御所の修繕費用として、4000貫文を寄進しています。

もちろん、信秀も戦国大名ですから、独立不羈(どくりつふき)なのですが、信秀は室町将軍や朝廷の利用価値を知り

常にそのパイプを絶やさないようにしていたのです。

 

享禄2年(1530年)松平清康(まつだいらきよやす)が尾張に侵入し、信秀支配下の東春日井郡の品野城(しなのじょう)や愛知県の岩崎城を攻め取り、

さらに今川氏の支援を受けて森山まで侵攻してきました。

この松平清康は、あの徳川家康(とくがわいえやす)の祖父で、非常な戦上手で知られていました。

 

信秀大ピンチですが、ここで森山崩れが起きて清康は部下に殺害され横死しました。

このチャンスを逃すまいと信秀は、混乱する松平氏の隙を突いて三河に逆に侵攻し、安祥城(あんじょうじょう)を攻略、今川氏の援軍を受けて奪還に来た

松平氏を1542年の第一次小豆坂(あずきざか)の戦いで破り西三河の権益を確保します。


 

織田信秀能力値の限界

斎藤道三

斎藤道三

 

1542年、美濃で斎藤道三(さいとうどうさん)により守護の土岐頼芸(ときよりなり)が追放されると、信秀は頼芸を支援し越前の朝倉孝景(あさくらたかがげ)と連携して、

美濃に出兵して道三と戦い一時は大垣城を奪いました。

 

 

ところが、経済でも戦争でも順調に勢力を広げていった信秀ですが、最後まで形式的な主君だった守護代家や守護家を潰そうとはしませんでした。

これらの勢力との関係は決して良好ではなく、むしろ仲が悪かったのですが信秀は旧来のしきたりと秩序を重んじ思い切った事しなかったのです。

そして、その甘さが晩年の信秀の足を引っ張っていく事になります。

 

天文13年(1544年)斎藤道三の居城、稲葉山城を攻撃して城下まで攻め込みますが、道三の反撃を受けて大敗します。

ここで信秀の勢力に陰りをみた犬山城主、織田信清(おだのぶきよ)と楽田城主の織田寛貞(おだひろさだ)が謀反を起こしました。

信秀はこれを鎮圧して従属させましたが、今度は、これをチャンスとみた道三が大垣城を攻撃救援の為に信秀は巻き返してみせますが、

その留守の間に今度は本家の織田信友が古渡城を攻めます。

信秀はこれにも対応して争いますが、翌年には和解しました。

織田信秀勢力最盛期

 

そんなこんなの間に苦労して奪った大垣城は道三に奪い返されています、あーあ・・

ぶっちゃけ!こんなどさくさで謀反したり、城を攻めるヒャッハー同族なんか、首チョンパでよくね?と思うのですが、

信秀は、どこまでも主家を立てて思い切った行動を取りません。

なんか甘い人だったのかなという感じがします。


  

 

 

織田信秀の最後

織田信秀の最後

 

1548年、今度は今川氏との間で第二次小豆坂の戦いが発生、織田軍は今川氏の参謀、太源雪斎(たいげんせっさい)の智謀の前に敗北、

次に発生した第三次安城合戦で安祥城を失います。

 

この戦いで庶子の織田信広(おだのぶひろ)が今川氏の捕虜にされ、信秀はやむなく松平家から人質にしていた松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換に応じ、

西三河の勢力を失いました。

 

かくして負けが込んでくると、信秀は今川や斎藤氏に押され、同時に守護代大和守家との間でも問題が再燃します。

信秀は敵を減らそうと、斎藤道三の娘の農姫と嫡男の信長との婚姻を打診し、1549年には婚姻が成立しました。

しかし、その頃から信秀の健康は急速に損なわれ執務が取れなくなり城主の仕事は信長が代行するようになります。

 

天文19年(1550年)には、今川義元が5万の大軍で攻め寄せ知多郡や愛知郡を奪われ織田家の勢力が縮小する報告を聞きながら、

1552年に信秀は末森城で死去します、41年の波瀾に満ちた生涯でした。

 

信長が位牌に抹香をぶつけたお寺はここ

 

信秀の墓は、愛知県名古屋市中区大須3-29-12、万松寺にあります。

18歳の信長が葬儀に遅れて到着した上に、信秀の位牌に向かい抹香(まっこう)をなげつけたお寺でもあります。

しかし、そんな奇行を行う信長に生前、信秀は那古屋城を与えていました。

周囲はどのように言えど、信秀は信長のうつけの奥にある才能を見抜いていたのでしょうね。

 

戦国時代ライター編集長の独り言

戦国時代ライター編集長の独り言

 

織田信秀は生涯に何度も敗戦しましたが、それにめげずに挽回しまた戦争ばかりではなく経済に着眼し室町文化を嗜んだ教養人でした。

その忍耐強さと経済センス、教養の深さは信長に継承されたと言えるでしょう。

そして、何度トラブルを起こされても、主家である大和守織田家を倒さずに和睦してしまうという人を信じやすい甘さも信長に似ています。

部分、部分に新しいセンスはあるものの、信秀自身は飽くまで主家を立てるという室町時代の武士の特質を引きづってしまった

室町から戦国への過渡期の戦国武将だったのかも知れませんね。

 

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