忠臣蔵はテロ?知っているようで知らない赤穂事件を解説


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赤穂浪士の吉良邸討ち入り

画像:赤穂浪士の吉良邸討ち入りWikipedia

 

昔は年末から新春にかけて、日本の茶の間では忠臣蔵(ちゅうしんぐら)が放送されていたものです。

内容は分からなくても、火事装束を着た大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が雪の降りしきる中で、山鹿流陣太鼓(やまがりゅうじんだいこ)を打ち鳴らし討ち入りの合図を出す姿は

テレビのコントなどを通してテンプレ化していると思います。

ところが最近は、忠臣蔵を幕府の裁定に従わず、私怨で一人の老人を斬殺した野蛮なテロであると否定する言説が出てきました。

これは事実なのでしょうか?もしそうなら、どうして忠臣蔵は300年以上も庶民に親しまれたのでしょうか?

今回は、この部分を考えると共に、日本人が忘れてしまった忠臣蔵に込められた大切な意味についてを解説します。

 

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忠臣蔵のあらすじ

忠臣蔵歌川国芳

画像:忠臣蔵図歌川国芳画Wikipedia

 

忠臣蔵は、1701年4月21日朝廷からの使者を接待する勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)を命じられた浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、その指南役であった高家(こうけ)

(古い武家で朝廷のしきたりに詳しい)吉良上野介(きらこうずけのすけ)に遺恨を持ち江戸城松の廊下で吉良に斬りつけた刃傷事件を元にした物語です。

この刃傷事件の責任を責任を取らされ浅野内匠頭長矩(ながのり)は即日切腹させられ赤穂藩は改易(かいえき)(取り潰し)とされます。

ところが、もう一方の当事者である吉良義央(よしなか)には、将軍綱吉(つなよし)より傷を労わる手紙さえ与えられお咎めは無しだったのです。

この裁定は喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)に照らして不公平であるという声が浅野内匠頭のサイドから挙がり、同時に内匠頭の弟であり後継者だった浅野大学(あさのだいがく)

広島の浅野本家預かりとなり、播州(ばんしゅう)赤穂藩の再興が不可能になった事態を受けて赤穂藩家老の大石内蔵助は、吉良邸への討ち入りを決意し、

新暦1703年1月30日に同志四十七士と共に吉良邸に討ち入り、吉良義央の首を挙げます。

以上が大体の忠臣蔵の大体のあらすじです。

 


 

実際には仇討ち要素が薄い忠臣蔵

大石内蔵助

画像:大石内蔵助Wikipedia

 

忠臣蔵を語る時に、一番強調されるのが主君の仇討ちです。

しかし、赤穂事件を子細に見ていると仇討ちは最終局面である事が分かります。

それは、大石内蔵助が赤穂城を反対派の意見を抑えて無血で明け渡した事に象徴されます。

つまり大石は激しい抵抗を行うと、幕府の心証を悪くし赤穂藩の再興が叶わないのではないかと考え、

城を枕に討ち死にを主張する強硬派を抑えていたのです。

 

ここには、大石の幕府の公式行事で刀を抜いた主君の切腹はやむを得ないという思考がありました。

ところが、幕府の処分は内匠頭の弟の浅野大学は閉門を受けた上に所領を没収されて、広島の浅野本家にお預けという大石の望みを

粉砕するものでした。

「赤穂藩の存続は叶わず、一方で吉良家はお咎めなし、これではやり切れない」

ここから大石は吉良を討ち果たして処分を同等にする喧嘩両成敗を志向しました。

もし、幕府が赤穂藩再興を許していれば、赤穂事件は起きなかったでしょう。

 

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武士の祖法喧嘩両成敗とは?

悪党(鎌倉)

 

喧嘩両成敗の規定は、中世の後期には見られるようになった概念です。

当時、社会の不安定さから土地の境界や水利権を巡る争いを訴訟ではなく実力行使で解決する故戦防戦と呼ばれる自力救済の考えが流行していました。

しかし、これでは「やられたらやり返す」という復讐の連鎖を呼び込み、果てしない闘争に繋がるので幕府は、騒動・騒乱を起こして

事態を解決する方法を禁じ、この手法を取った者は、理由如何を問わず、双方とも成敗するという喧嘩両成敗という概念が誕生します。

これは、紛争の解決を図るのに武力を用いたら双方を平等に処罰するという概念で非常に分かりやすく、社会に受け入れられる事になりました。

大石内蔵助や赤穂藩の人々が、浅野内匠頭と吉良上野介の私闘にも関わらず、幕府が喧嘩両成敗を取らなかった事に不満を持ったのは

当時は自然な事であり理不尽にキレたわけではなかったのです。


  

 

 

忠臣蔵はテロではなく法の遵守を幕府に求めた行動

 

すでに赤穂藩断絶が決定した以上、大石内蔵助以下、赤穂浪士に残された手段は、そのまま泣き寝入りするか、自らの力で吉良上野介を斬って

喧嘩両成敗を達成するかこの二つしか残されていませんでした。

どちらを取るにしても、赤穂浪士に大きなメリットはありません。

 

この不毛な二者択一状態から、四十七士はお先真っ暗で、まともな心理状態ではなく、吉良邸討ち入りは切羽(せっぱ)詰まったヤケクソで起こされたとする

ドラマも放送されました。

しかし、内蔵助は主君である浅野内匠頭が刃傷に至った事については討ち入り趣意書で

「時節場所をも(わきま)へざる働き、不調法至極(ぶちょうほうしごく)」と厳しく批判しています。

 

このような人が、報復、或いはヤケクソで討ち入りをするとは考えにくいのです。

テロには無数の定義がありますが、その中には身勝手な思想を暴力によって周囲に押し付けるというものがあります。

では、赤穂事件はそういうテロ同然の身勝手なものでしょうか?

私は違うと思います、幕府が喧嘩両成敗という祖法を無視して吉良家だけには咎めをしないというのは権力濫用(けんりょくらんよう)であり、

赤穂事件は権力の濫用を許さないという公的な使命を帯びたものであると考えるからです。

 

だからこそ似たような事件が幾つもありながら、忠臣蔵が称揚され以後300年も繰り返し演じられてきたのだと思うのです。

 

事件当初からあった赤穂浪士への批判

荻生徂徠

画像:荻生徂徠Wikipedia

 

赤穂事件は、何も最初から義挙として賞賛されただけではなく、厳しい批判にも遭いました。

例えば、佐藤直方(さとうなおかた)(1650~1719)は1705年以前に「四十六人之筆記」において、内匠頭(たくみのかみ)の刃傷において、吉良上野介が無抵抗で逃げただけ

という事実から、赤穂浪士が吉良を恨むのは逆恨みで上野介は赤穂浪士にとって君の(あだ)ではないと批判しました。

また、仇を討てば早々に切腹すべきをそうはせずに、幕府に連絡して沙汰を待つのはあわよくば義挙と持てはやされて助命され再仕官に繋げる

下心があるのでないかと書いています。

 

荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)も、「四十七士の事を論ず」で内匠頭は幕府に処罰されたのであって、吉良に殺されたわけではないから

浪士に取って吉良は、君の讐ではなく行動については、同情を禁じ得ないものの義ではないとしています。

 

また、大宰春台(だざいしゅんだい)(1680~1747)は、赤穂四十六士論で、そもそも赤穂浪士が恨むべきは不公平な裁きを下した幕府であって

吉良を殺すのは間違い、この際に赤穂浪士が取るべき道は、赤穂城の引き渡しに応じずに幕府に徹底抗戦し城に火を放って自害する事だと説きました。

 

当時、目上の親族の仇ではなく主君の仇討ちというのは珍しいケースでありこれが朱子学上の義になるのか、ならないのかという論争は

武士という身分にとって重要な関心事となり、論争は100年以上も続きました。

 

事件後、幕府は吉良家を断絶、喧嘩両成敗を履行

徳川綱吉

画像:徳川綱吉Wikipedia

 

事件後、幕府は隠居した義央の後を継いだ吉良佐兵衛義周(きらさへえよしちか)を不届きとして改易(かいえき)信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎(しなのたかしまはんしゅすわあきのかみただとら)に預けます。

その理由は、義父の義央が刃傷事件の時に、内匠頭に対して卑怯の振る舞いがあったとし吉良家に討ち入りがあった時にも未練の振る舞いがあった

とするものであり、「父の不行跡は子供として逃れ難い事」としたものでした。

つまり、幕府は刃傷事件の時に下した吉良家お咎めなしを覆して大石等が要求した喧嘩両成敗を事実上追認したのです。

もちろん、だからと言って幕府が赤穂浪士の吉良邸討ち入りを義挙と認る筈はなく幕府に盾突いた無法行為としましたが、

最低限の体面は守り斬首ではなく切腹で事を収める事になりました。

赤穂浪士の討ち入りは決して無駄ではなく、幕府に裁定の見直しを迫り喧嘩両成敗の遵守を履行させた日本史に残る大事件だったのです。

 

kawauso編集長の独り言

 

権力の横車は、どんな時代にも存在するものです。

どう考えても理不尽な裁定が下った時に、人はどうするでしょうか?

現代日本では司法に訴える方法もあり、行政に審査のやり直しを求める道もあるでしょう。

メディアに訴える事で、マスコミに報道してもらい社会問題にする方法もあります。

しかし、江戸時代にはそのような救済措置はなく裁定に文句があっても「黙れ!御政道に口を挟むとは不届き千万」で叱られ終りだったのです。

多くの人々がそれに対し、激しい不満を持ちながら泣き寝入りをしたであろうことは想像に難くありません、泣く子と地頭には勝てないからです。

その中で、大石内蔵助と赤穂浪士は泣き寝入りを拒否し幕府の裁定を否とし実力に訴えて喧嘩両成敗の原則を貫徹する為に吉良上野介を討ちました。

彼らは吉良が憎いのではなく、どこまでも幕府の裁定に異を唱え命に替えて遵法を迫ったのです。

これは権力の横車に泣いた人々のカタルシスになり、今日まで義挙として伝えられる事になりました。

 

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