日本史上最大の国難、蒙古襲来、文永・弘安と二度に渡って日本に攻め寄せた、モンゴル、高麗、女真の連合軍は鎌倉武士の奮闘そして二度の台風により失敗します。
これを見ると、当時の鎌倉武士は、さだめし戦意が旺盛だったように思えますが、実際には、当時の武士は所領を守る事は理解できても国防となるとピンと来ず、戦争に消極的な武士も少なからず居たのだそうです。当時の鎌倉幕府はやる気のない武士にどう対処したのでしょうか?
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この記事の目次
国土防衛それ美味いの?
文永の役を乗り切った鎌倉幕府ですが、実はひどく苛ついていました。その理由は、動員を掛けた九州の武士の集まりがあまり良くなかったからです。当時の御家人の中には、蒙古襲来の報を聞くと、大変だ所領を守らねばと砦に引きこもり、幕府の招集に応じない者や、武具が用意できていない、或いは親族の供養などを理由にして、招集に応じていながら積極的には戦おうとしない武士が大勢いて幕府を呆れさせます。
どうして武士が蒙古襲来に積極的に戦わなかったのか?
それは彼ら御家人は所領を守る事が第一であり、国土を守るという意識が希薄であった事が挙げられました。無理もありません、日本に海外から敵が攻めてきたなど、元寇が初めてでありもし負けたらどうなるか?なんてピンとこなかったのでしょう。あるいは、もっと呑気に幕府が負けたらモンゴル人に仕えようと高をくくっている御家人もいたかも知れません。
蒙古と戦う間に所領が奪われる恐れ
もう一つ大きな理由は、彼ら御家人の所領が不安定な事でした。鎌倉時代の初期、土地の相続は嫡子ばかりでなく兄弟で分けていました。必然的に世代が下ると相続する領地は段々と小さくなっていきます。
これにより兄弟で平等に分配する事を止めて嫡子相続にした所、相続からあぶれた兄弟たちが武装して自力で土地を占拠したり、嫡子からの所領の引き渡しに応じないというトラブルが起きていたのです。
これに加え、承久の乱が起きて後鳥羽上皇が破れ、上皇についた多くの西国武士の所領が幕府に没収されると東国の武士達は、西国に飛び地を与えられ管轄するようになりますが多くの東国武士は西国に行くのを嫌がり、土地を相続できない庶子や次男坊、三男坊を西国の領地経営に向かわせます。
しかし、元々、厄介者扱いだった庶子や次男、三男です。すぐに、親の言う事など聞かなくなり独立して勝手に振る舞いだします。おまけに、西国は武士に開発された東国より古くから開発が進み、寺院の領地や貴族の領地等利権が入り組んでいました。ここに東国武士の庶子や次男・三男坊が割り込んだので、領地を巡る紛争が絶えませんでした。
九州の御家人は、このような所領を武力で防衛していたので、蒙古襲来にかまけている間に、敵対勢力に土地を奪われてはたまらんと出来るだけ、戦わないようにサボタージュしていたのです。
つまり蒙古が怖かったわけではなく、所領の安全が心配だったのですね。
戦わぬなら戦わせてみせよう北条氏が強権発動
北条時宗
これに対して、鎌倉幕府を抑えている執権の北条得宗家は強硬策を取りました。戦わないなら戦わないといけないように仕向けようというのです。こうして北条氏は、合戦に参加しない御家人を処罰する掟や、それまで鎌倉幕府の権力が及ばなかった貴族や寺社の荘園にいる非御家人層も戦争に動員できるようにする介入が行われました。
そして、東国に所領を持ちながら西国の飛び地に逃げてしまい不在地主になっている東国の御家人も強制的に呼び戻します。
そればかりでなく、北条氏は情報戦略として全国の寺院に敵降伏の加持祈祷を行わせ、いかに蒙古が危険で厄介な連中かを全国で喧伝し民衆に危機意識を受け付け戦意の高揚を図ると同時に、基礎戦闘力を減少させる女性の所領相続の制限、戦闘地域と目される西国の荘園や公領の差し押さえ、兵糧や船舶の自由使用の権利、さらに、北条得宗家の一門に近い人々を西国の守護に任命して独占するなど来るべき、蒙古襲来に対して次々に手を打っていきます。
同時にこれらの政策は執権である北条得宗家の権力を強化するものであり、その後の鎌倉幕府の権力を得宗家が独占する事にも繋がりました。
むしろ、こっちから撃って出てやる!
色々あってやる気のない御家人に対し、鎌倉幕府は意気軒昂でした。文永の役でやすやすと蒙古軍の上陸を許した反省から逆に海を渡り、差し当って高麗に上陸し、港に停泊している敵軍の兵船を焼こうというのです。このような計画は、文永の役の後に何度か計画されましたが実行されませんでした。
アンゴルモア元寇合戦記の伏線 西遷悪党
二度の元寇は鎌倉武士を疲弊させました。大きな理由は、当時合戦に参加する武士が自腹だった事でした。所領が小さくなり、経済力が落ちているのに、長期間防衛に駆り出された武士は嵩んだ借金を支払えずに所領を手放し、土地を持たない無足の武士になりやがて、落ちぶれて山間に入って山賊になったり、仕事を求めて都市に入り博奕を打ったり、徒党を組んで悪党化したりしました。
鎌倉幕府は、これら落ちぶれた武士達を適当な名目で捕縛すると、蒙古襲来の最前線である西国に兵力として送り込んだのです。これを西遷悪党と言いますが、かなりなりふり構わない政策ですね。蒙古襲来を扱ったチャンバラ時代劇漫画、アンゴルモア元寇合戦記では、主人公の朽井迅三郎が、鎌倉での政変に敗れて罪人として対馬に流される所から物語が始まりますが、これなどはもろに西遷悪党なのです。
鎌倉時代ライターkawauso編集長の独り言
このような西遷悪党の中には、実際に元寇で手柄を立てて東国に戻った者手柄に恵まれずにそのまま、西国に土着した者達がいました。鎌倉幕府は蒙古襲来が終わった後も、西遷悪党を続けます。流された悪党達の中には、その後、団結して武装集団として暴れまわり来るべき南北朝の騒乱で活躍した武士の祖先もいたようです。
参考:〈歴史・時代小説ファン必携〉【絵解き】雑兵足軽たちの戦い (講談社文庫) 文庫 – 2007/3/15
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