戦国の七雄の中で最も多くの国と国境を接しているのが魏です。
北には趙、南には韓と楚、更に西には7国中最強の秦、東には東帝・斉が陣取っており、その圧力は凄まじかったことでしょう。
そんな魏が生き残るには単純な軍事力ではなく、他の国に負けないほどの内政や外交の手腕が必要でした。
そんなプレッシャーが半端ない魏を支えたのは他でも無い遊説家たち。
今回は『戦国策』より魏での遊説家たちの活躍をいくつかご紹介しましょう。
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我が子の肉を食えるということは…
魏の楽羊という武将が中山を攻めました。
しかし、中山には楽羊の子どもが人質に取られており、中山の主君も楽羊が攻めて来たことを知って楽羊の子を殺害。
あろうことか楽羊の子の肉を煮てスープを作り楽羊に送り付けたのでした。
しかし、楽羊は眉ひとつ動かさず、我が子のスープと知りながら平然と飲み干して見せたのです。
このことによって敵を震え上がらせて味方の士気を上げた楽羊はついに中山を滅ぼしたのでした。
魏の君主である文侯も
「楽羊が自分のために我が子の肉を食べてくれた」
と大絶賛。
しかし、
側近の堵師賛は
「我が子の肉を食うことができるということは誰を食わないでいることができるのでしょうね。」
と讒言。
堵師賛の言葉を聞いた文侯は楽羊に心を許すことができなくなってしまったのでした。
目障りだった中山を滅ぼしたのに、側近の讒言によって疑われることになった楽羊は不憫ですね。
音に敏感でいてはねぇ…
楽羊のエピソードに見るように人の言葉にフラフラ左右されてしまう魏の文侯については、次のようなエピソードも残されています。
ある日、魏の文侯は師として慕う田子方と一緒にお酒を飲み交わしていました。
その際、場を盛り上げるために楽器を演奏させていたのですが、音楽を聴いていた文侯が
「鐘の音が合っていない。
左の鐘の音がちょっと高い。」
とつぶやきました。
そのつぶやきを聞いた田子方は大笑い。
なぜ笑うのかと文侯が問うと、田子方は次のように答えました。
「私は君というものは明であれば楽官の和を楽しみ、不明であれば音楽の和を楽しむと聞いています。
今あなた様は音に詳しくていらっしゃいます。
そのため、私はあなたが官に疎いのではないかと思ったのです。」
文侯はこの言葉を聞いて
「なるほど、尤もです。謹んでお諭しを承りました。」
と答えました。
師匠とはいえ今や臣下の一人である田子方の言葉を素直に聞き入れた文侯。
この素直さがあったからこそ文侯は魏を戦国時代初の覇国へと押し上げることができたのでしょう。
—熱き『キングダム』の原点がココに—
老いた妾はどう振る舞う?
戦国時代、諸国に連衡策を説いてまわり、秦の領土拡大に貢献した宰相・張儀。
しかし、秦で自分と不仲の武王が即位すると張儀は誅殺されることを恐れて出奔し、魏を頼ったのでした。
「やり手の張儀が魏に来てくれた!」
と比較的歓迎ムードだったのですが、説客の張丑だけは猛反対。
魏の襄王に次のように諫言しました。
「襄王様も年老いた妾がどのように振る舞うかよくご存知でしょう。
子どもが成長して美貌が衰えてしまえば後はただただお家大事の一念のみ。
私が襄王様に仕えるさまもちょうど老いた妾が正妻に仕えるさまと同じなのです。」
これを聞いた襄王は張儀を魏に入れることを取りやめたのでした。
自分が魏のことを本気で想っているということを老いた妾にたとえて伝え、うまいこと張儀を魏に入れることを防いだ張丑。
しかし、後に張儀は魏に迎えられて宰相になっています。
一度は張儀を退けることに成功している張丑ですが、どうやら張儀の方が一枚上手だったようですね。
三国志ライターchopsticksの独り言
いかがでしたか?
魏策では遊説家たちの活躍が他国よりも生き生きと描かれているような気がします。
おそらくそれは魏という国が遊説家に他国以上に頼っていたからでしょう。
魏策を読むとその当時遊説家たちが信頼され必要とされた理由が垣間見える気がしますね。
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