【山月記】の中島敦は中国古典に違和感を持つフランス文学の人だった【李陵】


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隴西(ろうせい)李徴(りちょう)博学才穎(はくがくさいえい)天宝(てんぽう)の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉(こうなんい)()せられたが、

(せい)狷介(けんかい)(みずか)(たの)(ところ)(すこぶる)る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

 

こんな書き出しの『山月記』。

国語の教科書に載っていて読んだという方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

中島敦(なかじまあつし)のこういう文体から、中島敦は幼少期から漢文学に親しんでいたという作家評がなされるのをよく見るのですが、

私は中島敦は中国古典に対して違和感を持っていたと思います。

小さい頃から漢文を読んでいたって、それに親しむとは限りません。

 

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漢文一家で育った中島敦

中嶋敦

画像:中嶋敦Wikipedia

 

中島敦の祖父は中島撫山(なかじまぶざん)という漢学者です。撫山は号で、本名は中島慶太郎(1829生-1911没)。

慶太郎の実家は武家や大名が乗るような立派な駕籠(かご)を扱う豪商で、慶太郎は長男でした。

少年の頃から塾に通い、漢文の手ほどきを受けていました。

十九才で父親が亡くなり家業を継ぎましたが、十年後に家業を他の人に譲り、儒者(じゅしゃ)になりました。

この中島撫山先生は高名な漢学者で、お子様方もみな漢学を修められました。

中島敦の父・田人は旧制中学(12歳で入学する5年制の中学)の漢文の先生でした。

このように、親戚中漢文一家という環境で中島敦は育ちました。(生母は幼い頃に離婚)


 

卒業論文は「耽美派の研究」

 

中島敦が漢文を湯水のように浴びながら育ったであろうことは想像に難くありませんが、大学時代の専攻は国文学。

新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)とか泉鏡花(いずみきょうか)とかを読んでいたようです。

卒業論文は「耽美派(たんびは)の研究」大辞林第二版によれば、耽美派とは次のようなものだそうです。

 

耽美主義を信奉する、芸術上の一派。ボードレール・ペーター・ワイルド・ポーなど。

日本では明治末に森鷗外(もりおうがい)上田敏(うえだびん)らによって紹介され、雑誌「スバル」「三田文学」「新思潮」

などで、永井荷風(ながいかふう)谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)らによって醸成された。唯美派。新浪漫主義。

 

日本のしっとりとした風土と、フランスの耽美主義をミックスさせたようなものでしょうか。

この感じからは、ゴツゴツとして勇壮な中国古典のイメージは片鱗も見られません。

(漢文にも優美なものはありますが)

 

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フランス人っぽい南国趣味

 

中島敦は漢文を道具として使いこなせるスキルはあったと思いますが、気持ちとしてはフランス文学寄りの人ではないでしょうか。

中島敦の代表作の一つ『光と風と夢』は、イギリス人の「ロバァト・ルゥイス・スティヴンスン」

(ロバート・ルイス・スティーヴンソン)が南の島のサモアで過ごす様子を綴ったものですが、

視覚的にはゴーギャンの「タヒチの女」みたいな雰囲気です(フランス人の南国趣味っぽい)。

『光と風と夢』には漢文要素皆無です。

文章がさばさばしていますが、それは漢文要素というよりは、森鴎外要素でしょう。

 

漢文体でも、中身は漢文じゃない

 

中島敦の漢文体の作品は、見た目こそ漢文調ですが、精神は全く漢文ではありません。

例えば、『山月記』にある次のような文章

 

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。

(おれ)の場合、この尊大な羞恥心(しゅうちしん)が猛獣だった。虎だったのだ。

 

これは中島敦のオリジナルの感覚です。

『孟子』の「人必ず自ら侮りて然る後に人これを侮る」という言葉から分かるように、中国古典の世界では尊大な羞恥心は決して悪いものではありませ

ん。

古代中国は近代みたいに一人一人が大事にされる世界ではないので、中身がヘナチョコで恥ずかしーって思いながらでも態度だけは尊大に振る舞ってい

なければ、個人なんか(ちり)同然に吹き飛びます。

「尊大な羞恥心」は、むしろ人間としてこの地上にいられるためには必要な徳だったのではないでしょうか。

「尊大な羞恥心」で悩む『山月記』の主人公・李徴は、古代中国人ではありません。近代人です。

 

中国古典への違和感

 

中島敦に『牛人』という作品があります。元ネタは春秋左子伝(しゅんじゅうさしでん)です。

この話では、主人公の叔孫豹(しゅくそんひょう)が庶子の豎牛(じゅぎゅう)を可愛がっており、豎牛も寡黙に叔孫豹に仕えているのですが、

叔孫豹が病気になり重態になった時に、豎牛は他の息子への連絡もしてくれず、寝たきりの父の看病もせず食事も与えず、冷笑するばかり。

叔孫豹はどうしようもない状況の中で、豎牛を眺め、次のような思いを抱きながら死んでいきます。

 

其の(かお)は最早人間ではなく、真黒な原始の混沌に根を生やした一個の物のように思われる。

叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとする一人の男に対する恐怖ではない。

(むし)ろ、世界のきびしい悪意といった様なものへの、(へりくだ)った(おそ)れに近い。

最早先刻迄の怒は運命的な畏怖感に圧倒されて(しま)った。

 

世界の残酷さを執拗に描いていますね。

中国古典にはこんな残酷な話はごまんとあるので、心の底から漢文学に馴染んでいれば、こんなところにいちいち残酷さを見いだして

執拗に描くはずはありません。

中島敦は、中国古典に頻出する残酷な話には終生馴染めなかったのではないでしょうか。

中島敦は幼少期から世界の残酷さに馴染めず、中国古典の中にもそれを見いだして、それに対する違和感を書いたのです。


  

 

世界の残酷さ

 

中島敦が世界の残酷さを感じたきっかけは、小学生の頃に先生から聞いた地球の運命の話です。

狼疾記(ろうしつき)』には次のような文章があります。

 

地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。

所が、そのあとでは太陽までも消えて了うという。

太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに

黒い冷たい星共が廻っているだけになって了う。

それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分達は何のために生きているんだ。

 

この感覚が、中島敦の作品には絶えず流れています。

 

三国志ライター よかミカンの独り言

 

中島敦の作品といえば『山月記』や『李陵』を思い浮かべる方が多いかと思いますが、

それらの作品では漢文的なかっこよさに目を奪われやすいので、中島敦要素が分かりにくいと思います。

中島敦の作品を一つだけおすすめするとしたら、私は紀行集『環礁(かんしょう)――ミクロネシヤ巡島記抄――』の中の一篇「寂しい島」をおすすめします。

これは、中島敦の世界に対する不安が穏やかな形で綴られていて、しんみりと中島敦の感覚に寄り添うことができます。

中島敦への理解を深めてから『李陵』『山月記』などを読むと、また違った味わいが発見できるかもしれません。

まずは「寂しい島」、おすすめです!

 

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