【長江三峡】劉備が逃げ込んだ白帝城によかミカンが突撃

2018年2月10日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

西暦222年夏、蜀(しょく)の初代皇帝劉備(りゅうび)は呉(ご)への親征に失敗し、

軍勢の大半を失いながら白帝城(はくていじょう)に退却しました。

白帝城は長江(ちょうこう)の川幅が狭まる難所である三峡(さんきょう)の一つ、

瞿塘峡(くとうきょう)の傍にあります。私ことよかミカン、長江三峡クルーズで

白帝城を拝んできましたので、どういう場所だったかご紹介しちゃいます!

 

関連記事:趙雲は五丈原ではどんな役割だった?趙雲の北伐と最期

関連記事:116話:劉備、失意の中白帝城に没す!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



長江三峡クルーズの概要

 

「長江三峡下り」というフレーズが有名ですが、私は上りの船に乗りまして、出発点は

三国志でいえば荊州(けいしゅう)にあたる、湖北省の宜昌(ぎしょう)でした。

昼まで長沙(ちょうさ)で遊んでから列車で宜昌に向かい、着いたのが夜中の一時過ぎ、

船には一時半頃に乗り込みました。ここから四泊五日の船旅で、四川盆地の入口に

あたる重慶(じゅうけい)まで行きます。途中、西陵峡(せいりょうきょう)、巫峡(ふきょう)、

瞿塘峡(くとうきょう)の三峡を通り景観を楽しみ歴史に思いを馳せたりするという概要です。

 

北伐の真実に迫る

 

 



快適な船の旅

 

五日も続く船の旅、快適じゃないと観光客が来るわけないので船も小綺麗なものでした。

中国の三つ星ホテル(五段階評価)くらいの快適さです。それを快適だと思うかどうかは

個人差があるかと思いますが、清潔感は日本のビジネスホテルくらい、船のスタッフの

方々の笑顔とおもてなしは飛行機の国際線の客室乗務員をもうちょっと素朴で親しみ

やすくしたような感じで、まごころ溢れており、嫌な感じの人は一人もいなかったです。

 

内装は明るくてかわいらしく、くつろげました。食事は船内のレストランで中華を中心

としたコースかビュッフェで、中国の街のレストランのおいしいほうと同じくらいのものを

食べさせてもらえました。夜には船のスタッフの方々が民族舞踊を披露してくれたり、

ゲーム大会を催してくれました。本やオセロもあり、退屈しないようになっています。

 

私は船内を探検したり、自室の窓から水面を眺めたり、甲板で長江の雄大な景観を

眺めたりしていたら退屈する暇なかったです。

 

三峡の景観

 

景観はガイドブックとかにいくらでも写真が載っているのですが、安全な部屋の中で

切り取られた景色を眺めているのと、現地に突入するのとでは感覚が全く違います。

雄大な眺めというよりは、ものを眺めているという主観的な感覚までがあやしくなってくる

ほどの圧倒的な大自然ですね。

 

中国の人の強烈な個人主義の源は、ああいう人間世界なんかと無関係な次元の

巨大にして広大な自然環境かもしれないな、なんて思いました。

自分をしっかり持っておかないと人間なんか砂粒同然になるほどの規模。

川はどこまでも続いていて、山もいつまでも迫ってくるんですよ。

延々と何日もかけて航行するのに、いつまで経っても山と川です。

 

中国の神話時代の帝王が自然を克服することによって王となっていったのも肯けます。

原始の中国人にとっては自然は友達じゃなくて征服すべき脅威だったんですよ、きっと。

川の流れがちびっと変わっただけで大変な災害になりますからね。

人類のちっぽけさを感じさせてくれる長江の大スペクタクル。

ほんとにちっぽけなところにしがみついて生きているんですよ、我々は。

 

白帝城の手前の様子

 

川幅が狭く、水流が強く川底の形状も複雑な難所です。経験豊富な船頭さんがいないと

すぐ座礁するそうです。川の横のほぼ垂直な崖に桟道が作ってあります。

現代のように燃料を燃やしてスクリューを回して推進力を付けるような船じゃなかった頃は、

船が上流へ向かうのには船乗りが漕ぐ力だけでは足りず、桟道に人が出てロープで船を

引っ張って進んでいたそうです。この桟道は20世紀半ばまで使われていたそうです。

 

私の乗った船は人力じゃないので、エンジンをブルルーンと言わせて頑張って

いましたが、ずーっとブルルーン、ブルルーン、と言っているのに、半日ぐらい

ほとんど風景が変わりませんでした。進むのがよほど大変な難所なんですね。

これ、三国志の時代だったら、いったん長江を下ったら退却は至難ですよ。

劉備の呉への遠征に蜀の重臣たちが慎重だった理由が分ります。

 

ようやく着いた白帝城

 

ブルルーン、ブルルーン、と難所にアタックすること数時間。もう永遠に進まないんじゃ

ないかと心細くなり始めたところで、ようやくゆるゆると進み始めました。

前方の水面は変な形に波打っていて、よほど無理して流れている水の上を無理して通っているんだ

なという感じです。少し川幅が広くなって、ほっと人心地ついたところで忽然と見えて

くるんですね、白帝城が。川沿いの断崖の上にありました。

 

ダムによって今では島のようになっていますが、昔は陸とつながっていました。

崖の上の白帝城。水路でも陸路でも、呉方面からあそこへ行くのは至難です。

四川方向には川幅が広くなっていて、まさに四川の入口という感じ。

劉備が呉軍に追われて必死こいて逃げてきて、白帝城に入ってようやく人心地

ついたであろうことが容易に想像できました。

 

三国志ライター よかミカンの独り言

 

個人的に、三峡クルーズはとても楽しかったです。

ドイツ人の団体さんの貸し切り状態の船に、

友達と私だけ無理矢理混ぜてもらったような感じで、

ドイツ語しか話せないファミリーと一緒にご飯を食べましたけど、

なぜだか和気藹々(わきあいあい)でしたよ。

 

ドイツの方は気軽に裸になることで有名なのだそうですが、三峡クルーズでも

甲板で水着に着替えて日光浴してました。

クルーズの途中に、神農渓(しんのうけい)という名所を小舟で巡るミニツアーがあり、

バイキングもかくやと思われるような操船術を持つおじさんたちが渓流を手こぎ船で

案内してくれたのですが、水に濡れるので昔はふんどし一丁でやっていたそうです。

 

一緒に旅行をしていた友達は、昔のふんどし姿の写真が載った絵葉書が売られて

いるのを発見して「ウホッ、はだか祭り!」と喜んで買っていましたっけ。懐かしい。

 

関連記事:【諸葛亮の北伐】精鋭部隊をミエル化

関連記事:【姜維の北伐】実は「絹の道」シルクロードを奪って西域との貿易を考えていた

 

波動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
よかミカン

よかミカン

三国志好きが高じて会社を辞めて中国に留学したことのある夢見がちな成人です。 個人のサイトで三国志のおバカ小説を書いております。 三国志小説『ショッケンひにほゆ』 【劉備も関羽も張飛も出てこない! 三国志 蜀の北伐最前線おバカ日記】 何か一言: 皆様にたくさん三国志を読んで頂きたいという思いから わざとうさんくさい記事ばかりを書いています。 妄想は妄想、偏見は偏見、とはっきり分かるように書くことが私の良心です。 読んで下さった方が こんなわけないだろうと思ってつい三国志を読み返してしまうような記事を書きたいです!

-三国志の雑学
-,