漢中の数十年もの間宗教国家を作り上げることに成功した張魯。彼は五斗米道と呼ばれる宗教の教祖として漢中で君臨していました。しかしレンは張魯が自ら宗教国家を作り上げられるような人ではなかったように思えるのです。ではだれが張魯を漢中を占拠するように促したのか。ここからはレンの推測でお話を進めていきたいと思います。
そもそも五斗米道とはなんぞや
張魯が教祖となっていた五斗米道についてチョコット説明していきたいと思います。
五斗米道とは張修を教祖とした宗教団体で
民衆の病気を治すことを目的としていました。
五斗米道によって病を治すことに成功した民衆は五斗米道へお礼としてコメを五斗を五斗米道へ報酬として寄進していたそうです。このことから五斗米道がどのように民衆の病を治していったのか。
まず静かな部屋へ病人を案内して、この部屋で今までの罪を反省させます。この反省を行った後、姦令祭酒と呼ばれる役職のついた幹部が病人のために祈祷を行います。この姦令祭酒は病人の姓名を書き記した紙を川の底・山の頂上・土中の三つの場所へ埋葬。この方法で張修は多くの民衆から五斗のコメをもらうことに成功します。
病気を治すことに何の効果もありませんでしたが、現在のように医者がいっぱいいる時代ではなかった三国時代では、かなり大きな効果をもたらすことになったそうです。
張魯が漢中を占拠
こうして五斗米道が誕生することになります。その後五斗米道は漢中を占拠して宗教国家を作り上げることに成功しますが、どのようにして張魯は漢中を占拠することができたのか。
それは劉璋の父親・劉焉が張魯と張修へ軍勢を与えて、漢中を占領していた漢中太守を殺害させたからです。漢中には太守がいて漢中を治めていましたが、漢中太守を殺害した張魯は張修を殺害してこの地を治めます。
しかしここで一つに疑問がわきませんか。それは劉焉がどうして自分の部下に兵士を与えて漢中太守を殺害させなかったのかという点です。それはレンが考えるに張魯の母が関係していると思われます。
張魯の母が劉焉をたぶらかす
張魯の母はかなりの美人できれいな人物であったと正史三国志蜀書に記載されております。そしてこの正史三国志では張魯の母が劉焉に取り入ったと書いてあります。
張魯の母が劉焉に取り入る間もしくは取り入ることに成功した時、息子の張魯へ「私が劉焉から軍勢をもらって漢中攻撃を行うようにさせます。そしたらあんたは漢中を攻撃して占領し、劉焉から独立して宗教国家を作り上げてしまいなさい」とアドバイスをしたのではないのでしょうか。
この証左として張魯の母が劉焉の家に幾度も遊びに行って、その後張魯へ官職を与えて漢中征伐のための軍勢を与えたとの記載があります。そして張魯は張修を殺害した後、漢中を我が物にしてしまうのです。
もし張魯の母親がこのように張魯へアドバイスをしていたのであれば漢中で張魯が独立したことの理由として辻褄が合うような気がするのですがみなさんはどのように思いますか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は張魯が漢中で独立した理由について紹介しました。張魯の母はどうして張魯を漢中で独立させようとしたのか。張魯が劉焉の下にいればそのうち殺害されてしまうと考えたのか。それとも息子を群雄の仲間入りさせ、漢中で戦力を整えたのち天下を取らせたかったのか。もしくは宗教国家として民衆を平和で安全な国を作らせたかったのか。
今となっては張魯の母親に聞いてみないと分からないので、真相は闇の中です。しかし史実の上での結論から言えば、張魯が天下を取ることができなかったのが事実です。
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