1964年の東京オリンピックの誘致に成功したキーマンと言えば、田畑政治です。1964年以前に1940年の東京オリンピックの誘致にも成功しました。しかし、1940年の東京オリンピックは日中戦争の激化と太平洋戦争勃発により開催中止となりました。よって、1940年の東京オリンピックは幻の東京オリンピックと呼ばれています。今回は、田畑政治と幻の東京オリンピックについて取り上げます。
オリンピックを誘致した田畑政治
田畑政治は2019年の大河ドラマ『いだてん~オリンピック噺~』の主人公です。『東京オリンピックのキーマン田畑政治』によれば、田畑は1898年生まれで静岡県浜松市出身です。東京帝国大学卒業後に朝日新聞社に入社しました。新聞記者だけでなく、水泳指導者も務め、1932年のロサンゼルスオリンピックなどで日本代表監督を務めました。
1940年の東京オリンピックの誘致に成功しますが、このオリンピックは戦争の激化により中止となりました。第二次世界大戦後の1948年に日本水泳連盟の会長に就任しました。1948年のロンドンオリンピックに参加することはできませんでしたが、1949年には国際水泳連盟の復帰に成功しました。
1952年のヘルシンキオリンピックと1956年のメルボルンオリンピックで日本選手団の団長を務めるなどオリンピックの場で活躍しました。戦後間もない頃から東京にオリンピックを誘致することに力を入れました。その成果として1964年の東京オリンピックの招致に成功しました。
1964年の東京オリンピック後、1973年から4年間日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務め、1984年に死亡しました。
幻の1940年の東京オリンピック
1940年は日中戦争が続いていたことや第二次世界大戦が勃発していて激化していました。1940年の東京オリンピックは日中戦争の激化に伴い中止となりました。
この年は代替地としてヘルシンキでの開催も検討されましたが、第二次世界大戦の激化で実施できず、オリンピックの開催そのものが中止となりました。
『東京オリンピックのキーマン田畑政治』では、1940年の東京オリンピックの招致に成功した経緯について取り上げています。1932年に日本代表はIOCに対して第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として立候補しました。東京を含め10都市が立候補しましたが、東京・ローマ・ヘルシンキの3都市に絞られました。
当時、アジアで日本のように独立国は少なく、国内にオリンピック委員会を持つ国も少数であることや当時のアジアは夏季の高温多雨や欧米から離れていて旅費・時間の問題が課題になっていました。日本に招致活動の点でかなり不利な状況でしたが、その課題を克服して大会招致に成功しました。1940年に東京オリンピックが開催された場合、当時アジア初のオリンピック開催ということで注目されました。
東京五輪ライターオフィス樋口の独り言
今回は幻のオリンピックと言われた1940年の東京オリンピックについて取り上げました。2019年の大河ドラマで、東京へのオリンピック招致に成功した田畑政治について、どのような演出になるのか気になります。
1940年の東京オリンピックでは、陸上競技・競泳・水球・飛び込みなど現代の競技とほとんど変わりません。ただし、サッカーについては蹴球と表記されています。カタカナ語が禁止されていた戦争の影響が残っているのかもしれません。
今回は1940年の東京オリンピックの誘致について取り上げましたが、田畑は1964年の東京オリンピックの誘致にも成功しています。大河ドラマ『いだてん~オリンピック噺~』の中で、1940年と1964年のオリンピック招致活動において、違いがあれば注目したいと思います。大河ドラマだけでなく、歴史秘話ヒストリアなど他の歴史番組でも注目したいと思います。
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