【列子】道教の「道」とは?道に身をゆだねれば安らぐかもしれない話

2019年2月8日


 

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幕末 魏呉蜀 書物

 

列子れっし』は「朝三暮四ちょうさんぼし」や「杞憂きゆう」のお話が載っている道家の思想書です。

道家というと、老荘思想ろうそうしそう
とか仙人とかのイメージがありますよね。

『列子』には「朝三暮四」のような通俗的な逸話だけでなく、哲学としての老荘思想を説いたような話も載録されています。

本日は、『列子』の天瑞篇で「道」について説明されている哲学的な部分を読んでみましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「道」とは何ぞや?

 

今回ご紹介する話の中では、まず最初に、形のあるものは必ず滅びると述べられています。

そうして、次のような文章が続きます。

 

それでは、「道」は終わることがあるのだろうか。

いやいや、「道」は元来(がんらい)、始めもなければ終わりもないのである。

では、「道」はなくなってしまうのだろうか。

いやいや、「道」は元来、〔形や終わりのある〕万物のような存在(もの)ではないのだ。

 

「道」って、なんじゃらほい。「道教」の「道」なんでしょうけれども……

続きを読んでみましょう。

 

およそ、すべて生あるものは、「不生(せいなき)」のもの、すなわち生成変化消滅を超越した宇宙の根源(おおもと)である「道」に帰ってゆき、すべて形あるものは、「無形(かたちなき)」のもの、すなわち形のない宇宙の根源である「道」にと帰ってゆく。

そして、この「不生」のもの、すなわち生成変化消滅を超越した根源である「道」は、元来なんら生命力を持たぬ単なる「不生」のものとは違うし、この「無形」のもの、すなわち形のない根源である「道」は、元来なんら姿・形を持たぬ単なる「無形」のものとは全く違うのである。

 

道というのは、物質世界のあれこれとは別次元のもので、宇宙の運動の根本を司っているものだ、っていうような感じでしょうかね?? 分かるような分からないような……



 

 

人生において死とは当然の帰着である

 

「道」の説明の後には、道理に従った人生のありかたが述べられます。

 

すべて万物として生まれてきたものは、理の当然として必ず終わるとき(消滅・死)があるのである。

終わるときがあるものが終わらないわけにいかないのは、(あたか)も生まれてくるものが生まれてこないわけにいかないのと同様〔に真理〕なのである。

それなのに、その〔万物としての〕生を永久不滅のものとし、その終わり(消滅・死)をなくそうとするのは、それこそ理の当然に戸惑ったものといわねばならぬ。

 

おや、道教=神仙思想というようなイメージがありましたが、ここでは神仙思想を否定するような感じですね。道教、神仙思想、老荘思想、って、きっとそれぞれ意味が違うのでしょう……。

 

 

あるべき場所へ帰るのみ

 

さて、上では死が人生の当然の帰着であることが述べられていました。

このあとの部分が、私は個人的にとても好きです。

 

〔人が死んで、〕精神が肉体から分離すると、分離した精神と肉体はそれぞれ本来の住処〔である天と地〕に帰ってゆく。

そこで死んだ人間をば指して「鬼(き)」というのである。

「鬼」とは帰(き)すなわち帰(返)るという意味であり、その「真宅」すなわち本来の住処に帰ってゆくことをいう。

だからこそ、黄帝も「人間の精神はもと出てきた(でいりぐち)(天)に戻ってゆき、肉体はその生まれてきた根本(おおもと)(地)に帰ってゆく。もはやこの自分などはいったいどこに存在しようか」と言っておられるのである。

 

人間は生きている間は精神も肉体も自分のもののように思っていますが、死ねばそれぞれが帰すべきところに帰って行くのだそうです。

ここで述べられている死は、道理に従って動いてゆくだけの自然なことであるようです。

道理に従っているだけ、と思うと、自分の何もかもが「道」に受け入れられているようで、何も悩んだり恐れたりしなくていいのかな、と思えてきませんか?

 

 

三国志ライター よかミカンの独り言

三国志ライター よかミカンさん

 

『列子』の中には、人間の一念によって物理原則を超越することができるという現世利益的な思想を述べている逸話もあれば、今回ご紹介したような、あるがままを受け入れるという哲学を説いた部分もあります。

道教の様々な様相を見ることのできる奇書といえるでしょう。

 

参考文献: 小林勝人訳注 『列子』 岩波文庫 1987年1月29日

※記事の中で引用した文章はこの本によりました。

 

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孔門十哲

 

 

 

 

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よかミカン

三国志好きが高じて会社を辞めて中国に留学したことのある夢見がちな成人です。 個人のサイトで三国志のおバカ小説を書いております。 三国志小説『ショッケンひにほゆ』 【劉備も関羽も張飛も出てこない! 三国志 蜀の北伐最前線おバカ日記】 何か一言: 皆様にたくさん三国志を読んで頂きたいという思いから わざとうさんくさい記事ばかりを書いています。 妄想は妄想、偏見は偏見、とはっきり分かるように書くことが私の良心です。 読んで下さった方が こんなわけないだろうと思ってつい三国志を読み返してしまうような記事を書きたいです!

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