前漢代は優秀な皇帝がたくさん輩出されましたが、その中に文帝の名が挙げられます。文帝の御代は息子の景帝の御代とあわせて「文景の治」と称されており、素晴らしい政治を行った時代だったのだそう。
そんな文帝の政治とは一体どのようなものだったのでしょうか?彼の人生を追いながら彼の政治手腕についてチェックしてみましょう。
この記事の目次
呂后の禍を辛くも逃れた文帝
文帝の母は劉邦が項羽と戦っていた頃に反乱を起こした魏豹の妻・薄氏。
魏豹が韓信に敗れた際に薄氏は劉邦の後宮に入れられ、劉邦との間に文帝を授かりました。
後に文帝は代国に王として封じられ、母・薄氏と叔父と共に暮らし、すくすくと成長。しかし、高祖・劉邦が崩御すると呂后による専横政治が行われ、高祖の庶子を次々と殺害し始めました。
文帝の身も危ないかに思われましたが、母・薄氏が後宮で質素に振る舞い、進んで劉邦の寵愛を受けなかったからか文帝はこの難を逃れることができたのでした。
代国の人々の反対の声を押し切って擁立された文帝
禍の元であった呂后が崩御すると
呂氏一族誅滅され、
外戚の権力欲がそれほど強くない人物を
皇帝に擁立しようという話が持ち上がりました。
結果、
白羽の矢が立てられたのが文帝です。
母・薄氏は戦国・魏の末裔で出自も悪くなく、
文帝自身も欲が無く人格者であるということ、
そして遺された劉邦の子の中でも
最年長であるという理由から選ばれたようです。
ところが、
このことに猛反対したのが代国の人たちでした。
「血なまぐさい中央なんかに
うちの王様をやることはできない!」
というのが彼らの主張。
しかし、
皇帝即位を求める使者が5度も
代国に訪れたことから文帝も観念し、
ようやく長安への上京を決意。
ところが、
代国の人々にはまだまだ即位反対派が多かったため、
文帝はわずか数名の側近だけを連れて
長安に旅立つことになったのでした。
民を慈しむ政治に尽力
文帝は高祖時代からの老臣に
嫌味を以て迎えられるという洗礼を受けますが、
老臣たちが引退してからは代王時代の臣下を登用して
自ら政治の舵取りをすることができるようになりました。
文帝の政治は
基本的に高祖・劉邦の政治を受け継ぐもので、
民草を慈しむことに主眼を置くものでした。
民草の生活状況に応じて
度々減税を実施して農村の活性化を図り、
自らも節約に励み、
新しい楼閣の建設も贅沢すぎるということで中止。
自分の陵墓も小規模なものにするように命じました。
その結果、
食料が食べきれないほど増えて倉庫で腐ったり
お金が溜まりすぎて
長らく放っておいた銭の間に通す紐が腐って
勘定ができなくなったという話が持ち上がるほど
国内は豊かになったのだそうです。
むごたらしい刑を廃止
心優しい文帝は
四肢の切断や鼻削ぎといった類の
肉刑を廃止しました。
「肉刑を受けた罪人は
結局生活が立ち行かなくなって
更生することもできなくなってしまう」
と訴えたある罪人の娘の言葉を聞き入れたのです。
ただ、
死刑が廃止されることは無かったので
ちょっとした罪で死刑になることが
増えてしまったという批判もあったみたいですね。
二十四孝に数えられる孝行息子
政治で手腕を発揮した文帝ですが、
彼は孝行息子であったということでも有名です。
母・薄氏が食べるものについては
自ら毒見してあげたり、
冤罪によって周勃が逮捕されたことについて
薄氏に説教されたらすぐに周勃を釈放したり、
匈奴との戦争も薄氏の言葉を聞いて中止したり。
「もはやマザコンでは?」
と言いたくなりますが、
薄氏の後宮での質素な振る舞いによって
今の自分の命があるということを
よくわかっていたからこそ
文帝は母を信じて尽くしていたのでしょう。
呉楚七国の乱の種をまいた?
善政によって人々を導いた文帝ですが、
彼の子・景帝の時代に起こる
大反乱・呉楚七国の乱の種をまいた
張本人であると言われることもしばしば。
文帝は諸侯王にも優しく接し、
世継ぎがいなかったり謀反を起こしたりした者にも
彼らの血縁者に領地を分割して与えて
諸侯王の地位を授けたりと
温情をかけ続けたのです。
その結果、
増長した諸侯王が
呉楚七国の乱を起こしたと言われているのですが、
この反乱を鎮圧できたのもまた
文帝のおかげであると言われています。
文帝はちょっと無礼な振る舞いが目立つ
周亜夫、袁盎といった臣下をも罪に問うことなく愛し、
「何かあれば周亜夫、袁盎を頼るように」
と景帝に言い遺して崩御しました。
そのため、
周亜夫・袁盎の大活躍によって
景帝は反乱軍を速やかに鎮圧できたのだそうです。
三国志ライターchopsticksの独り言
華々しい活躍は無い文帝ですが彼の堅実な政治は人々を豊かにしてくれました。文帝はまさに為政者の鑑ともいえる存在ですね。
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