全28代!漢王朝の系図をあっさり紹介するよ!

2019年2月13日


 

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城銅雀台

 

前漢(ぜんかん)後漢(ごかん)合わせて

400年もの長い間続いた漢王朝(かんおうちょう)

 

もちろん、

その皇帝の数だって伊達ではありません。

その皇帝の数は

徳川15代もびっくりの28代!

 

今回は漢王朝の28代に及ぶ系図を

あっさりと紹介させていただきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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前漢14代の皇帝たち

劉邦

 

・初代 太祖高帝(たいそこうてい)劉邦(りゅうほう)

言わずと知れた漢の建国者。

田舎者の彼が皇帝にまでなれたのは

良い臣下に恵まれたからに他なりませんが、

そのことは彼自身がよく弁えていました。

英雄はかくあるべき

と理想の皇帝像として人々の胸に焼き付いています。

 

 

・第2代 恵帝(けいてい)劉盈(りゅうえい)

母・呂后(りょこう)によりお飾り皇帝になってしまった劉盈。

呂后の振る舞いに嫌気が差して酒色にふけり、

23歳という若さで崩御してしまいました。

 

 

・第3代 少帝恭(しょうていきょう)劉恭(りゅうきょう)

劉盈と後宮の女性との間にできた子。

しかし、呂后は張皇后(ちょうこうごう)の子であるとするために、

劉恭の生みの母を殺してしまいます。

真実を知った劉恭は呂后を怨みますが、

呂后は復讐を恐れて幽閉して廃位し、

殺してしまったのでした。

 

 

・第4代 少帝弘(しょうていこう)劉弘(りゅうこう)

呂后によって即位させられたものの、

呂后が亡くなり

呂氏一族が粛清されると監禁され、

後に毒殺されてしまいました。

 

文帝(前漢)

 

・第5代 太宗文帝(たいそうぶんてい)劉恒(りゅうこう)

劉邦の四男。

減税をしたり肉刑を廃止したりと

民を慈しむ政治を行い、

自ら質素倹約に努め、

人々に範を示して見せました。

 

景帝(けいてい)は前漢の第6代皇帝

 

 

・第6代 景帝(けいてい)劉啓(りゅうけい)

劉恒と同様に善政を行い、

文景の治と称賛された皇帝

しかし、肥えた諸侯王の力を

そぎ落とそうとして反感を買い

呉楚七国の乱を起こされてしまいます。

 

武帝は前漢の第7代皇帝

 

 

・第7代 世宗武帝(せそうぶてい)劉徹(りゅうてつ)

泰山で封禅の儀を行い、

儒教を官学にするなどして

漢代絶頂期を迎えた皇帝です。

外征に力を入れすぎて反感を買うも、

酷吏を任用して人々を抑えつけました。

 

 

・第8代 昭帝(しょうてい)・劉弗陵

8歳で即位しましたが

21歳で急病にたおれて崩御してしまいました。

彼の御代には塩と鉄の専売についての議論が

盛んに行われました。

 

 

・第9代 海昏侯廃帝・劉賀(りゅうが)

即位後一ヶ月も経たないうちに

素行不良のため廃位されちゃいました。

 

・第10代 中宗宣帝(ちゅうそうせんてい)劉詢(りゅうじゅん)

前漢中興の祖として名高い皇帝です。

信賞必罰の善政を敷きました。

 

 

・第11代 高宗元帝(こうそうげんてい)劉奭(りゅうせき)

法を重んじた父・劉詢とは対照的に

儒教を重んじましたが、理想主義すぎて

国力を衰えさせてしまうことに…。

 

 

・第12代 統宗成帝(とうそうせいてい)・劉驁

宣帝以来力をつけていた

宦官の勢力をそぎ落とすことに成功するも、

後に王莽(おうもう)を生み出す外戚勢力を

拡大させてしまいます。

 

 

・第13代 哀帝(あいてい)劉欣(りゅうきん)

男色にふけり、

寵愛していた董賢(とうけん)

禅譲しようとしちゃった困った皇帝でした。

 

 

・第14代 元宗平帝(げんそうへいてい)・劉衎

わずか9歳で即位させられた傀儡皇帝。

王莽に毒殺されたとか、されなかったとか。

 



後漢14代の皇帝たち

光武帝(劉秀)陰麗華

 

・初代 世祖光武帝(せいそこうぶてい)劉秀(りゅうしゅう)

景帝の子・劉発(りゅうはつ)の末裔。

人民の生活を安定させる政策を打ち出し、

統治機構を整備して

儒教を振興するなど

後漢王朝の礎を築き上げました。

 

・第2代 顕宗明帝(けんそうめいてい)劉荘(りゅうそう)

基本的には父・劉秀の政治を受けつぎながら、

西域を中心とする対外政策を積極的に行い、

後漢王朝全盛期を築いた皇帝です。

 

・第3代 粛宗章帝(しゅくそうしょうてい)劉炟(りゅうたつ)

勉強熱心で儒学に明るい皇帝でした。

五経の異同を議論させて

班固(はんこ)に『白虎通義』を編ませるなど、

儒学に大きく貢献したことで有名です。

 

・第4代 穆宗和帝(ぼくそうわてい)劉肇(りゅうちょう)

継母・竇太后(とうこうごう)の一族に

政権を奪われていたものの、

宦官・鄭衆(ていしゅう)の力を借りて

実権を取り戻すことに成功した皇帝。

しかし、このことがきっかけで

外戚VS宦官の争いが激化してしまうことに…。

 

・第5代 殤帝(しょうてい)・劉隆

生後100日ほどで即位したものの、

1年ほどで夭折してしまった

中国史上最年少の皇帝。

 

・第6代 恭宗安帝(きょうそうあんてい)・劉祜

天災や異民族の反乱に

相次いで見舞われ、

散々な目に遭った皇帝です。

 

・第7代 少帝懿(しょうていい)劉懿(りゅうい)

正史では皇帝として認められていない

これまた不遇な皇帝です。

即位後200日ほどで崩御してしまいました。

 

・第8代 敬宗順帝(けいそうじゅんてい)劉保(りゅうほ)

宦官に養子をとることを初めて認めた皇帝。

天災や異民族の反乱などに悩まされました。

 

・第9代 沖帝(ちゅうてい)・劉炳

わずか2歳で即位するも3歳で崩御。

外戚・梁冀(りょうき)に毒殺されたと専らの噂。

 

・第10代 質帝(しつてい)・劉纘

専横を極める梁冀を譏ったことで毒殺され

在位6ヶ月で崩御してしまいました。

 

・第11代 威宗桓帝(かんてい)劉志(りゅうし)

梁冀によって擁立されましたが、

宦官の力を借りて梁冀を誅殺することに成功。

宦官の力が増し、

それに反発した儒学者たちが弾圧される

党錮の禁が勃発しました。

 

西洋が好きな霊帝

 

・第12代 度宗霊帝(れいてい)劉宏(りゅうこう)

党錮の禁や黄巾の乱に悩まされた皇帝。

宦官にふりまわされ、

圧政を敷いたことから評価は低いです。

 

小帝

 

・第13代 懐王少帝弁(かいおうしょうていべん)劉辯(りゅうへん)

董卓(とうたく)によって在位5カ月で廃位され、

毒殺されてしまいました。

 

献帝

 

・第14代 献帝(けんてい)劉協(りゅうきょう)

董卓によって擁立されたものの、

傀儡皇帝として振り回されることに。

魏の曹丕(そうひ)に禅譲し山陽公に封じられました。

 

三国志ライターchopsticksの独り言

 

漢王朝の皇帝たちは個性豊かですね。

夭折した人が多いのが不憫。

 

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まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

 

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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