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馬謖の息子はどうなった?街亭の戦いの失敗による処罰で影響はあった?

2019年2月22日


 

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馬謖

 

「泣いて馬謖を斬る」で有名な馬謖(ばしょく)。彼は非常に優秀な人材でしたが、初めての北伐戦で大失敗を犯してしまいます。諸葛亮(しょかつりょう)は馬謖の大失敗を見逃さないで処罰。こうして馬謖は処罰されて亡くなってしまいますが、彼の息子はどうなったのでしょうか。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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馬謖はどうして処罰されたの??

山頂に陣を敷いた馬謖

 

そもそもの問題ですが、どうして馬謖は処罰されたのでしょう。馬謖が処罰されることになった原因は初めての北伐戦で大失敗を起こしたことが原因です。

 

 

 

命令無視が原因で街亭の戦いで大敗北

馬謖の失敗に嘆く孔明

 

馬謖は諸葛亮と一緒に魏を討伐する北伐戦に参加。総大将であった諸葛亮は馬謖に街亭を守るように命令を下します。諸葛亮は馬謖へ命令を下した後「馬謖よ。街亭には山があるが、ここに登っては絶対にダメだ。」とアドバイスを行います。

 

北方謙三風ハードボイルドな馬謖

 

馬謖は諸葛亮のアドバイスを聞いて、街亭に向けて出陣していきます。馬謖は街亭に到着すると「ちょうど良さげな山があるじゃん」と山を見上げます。そして馬謖はなんと諸葛亮の命令を無視して、街亭近くにある山に登ったのです。魏軍は街亭の蜀軍が山に登って布陣していることを知ると山を包囲。

 

敵に囲まれる馬謖

 

その後魏軍は蜀軍へ総攻撃を行います。馬謖は魏軍の総攻撃を受けると蜀軍を率いて攻撃を行いますが、魏軍の攻撃を防ぎきることができずに敗北。諸葛亮は馬謖が本陣に逃げ帰ってきたことを知ると、蜀軍を駐屯させておく拠点がないため、漢中へ撤退させていきます。

 

 

泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬る諸葛亮

 

諸葛亮は漢中に帰ると馬謖を街亭の戦いでの敗北と命令無視の罪の責任を取らせるため牢獄へ。その後馬謖は諸葛亮の命令によって処罰されて亡くなってしまいます。上記の原因が理由で馬謖は亡くなることになりますが、諸葛亮は彼の息子も馬謖の罪に連座して処罰したのでしょうか。

 

馬謖の家族はどうなったの??

 

諸葛亮は馬謖を街亭の戦いでの敗北と命令無視を理由にして殺害。この時諸葛亮は馬謖の家族たちも一緒に殺害してしまったのでしょうか。

 

馬謖の家族は正史三国志・馬謖伝を調べてみると、馬謖の家族が殺害されることはありませんでした。そして正史三国志・馬謖伝によれば、馬謖には息子がいたそうですが、馬謖とおなじように諸葛亮に可愛がられたのでしょうか。

 

 

馬謖の息子はどうなったの?

 

馬謖には息子がいましたが、馬謖死後どうなったのでしょうか。諸葛亮は馬謖を街亭の戦いでの敗北責任として殺害した後、馬謖の息子を「平素と同じように遇した」と正史三国志にあります。

 

「平素と同じように遇した」とは諸葛亮が馬謖の息子を馬謖と同じように可愛がったということでしょうか。それとも諸葛亮はただ平然と馬謖の息子に接したのでしょうか。正史三国志には馬謖の息子に対しての情報を上記だけしか載せていませんので、その後馬謖の息子がどうなったかなどの詳しいことはわかりません。レンの希望としては諸葛亮が馬謖と同じように彼の息子もかわいがってくれていればいいなと思うのですが、皆様はどのように思いますか。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

レンは馬謖の息子の資料が正史三国志だけだとあまりにも少ないためほかの資料も漁ったのですが、馬謖の息子に関する資料は残されていない状態でした。そのため馬謖の息子が大きくなってどのような活躍をしたのかもわかりません。

 

もしかしたら馬謖の息子は父を殺害した蜀を憎んでいたため、蜀に仕えることをしないで平民のママでいたのかもしれません。また父を殺害した蜀を憎んで魏や呉に名前を変えて仕えたのかもしれません。

 

黒田レンとしては馬謖の息子が蜀で平民になって暮らしているよりも魏や呉に名前を変えて仕えていた方がしっくりとくるのですが、皆様は馬謖の息子がどのようになったと思いますか。

 

■参考 正史三国志馬謖伝など

 

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三国志平話

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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