後藤象二郎とはどんな人?大政奉還の立役者でもある土佐三伯の1人

2019年2月25日


 

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後藤象二郎

 

今回は後藤象二郎(ごとう しょうじろう
)
について取り上げます。後藤象二郎といえば、幕末の大河ドラマでは坂本龍馬(さかもとりょうま)が建白した大政奉還を山内容堂(やまうち ようどう)に建白した人物としてよく見ると思います。

 

読者の中には明治時代の後藤象二郎を思い出すかもしれません。具体的には、日本史の教科書で明治政府の官営模範工場が三井・住友・三菱・安田・古河などに安く払い下げられたとき、後藤象二郎を経て払い下げられました。

 

この記事では後藤象二郎の生涯を土佐藩士時代と明治時代に分けて取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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土佐藩士時代の後藤象二郎

 

後藤象二郎は土佐藩の上士として生まれました。少年期に父を失うと、吉田東洋に預けられ、武芸と学問に励みました。吉田東洋に推薦され、土佐藩で奉行を務めました。

 

1862年に吉田東洋が暗殺されると、奉行の職から外されたため江戸の開成所で英語を学びました。土佐藩の藩政を事実上握っていた山内容堂から信任を得ると、参与として陽動とともに公武合体派として活動します。

 

後藤象二郎が参与になった頃、土佐勤皇隊だった武市瑞山らを逮捕するなど尊王攘夷派の取り締まりに力を入れました。また、後藤象二郎は薩摩・長崎や上海を視察するなど海外の情勢を分析するようになりました。坂本龍馬は土佐藩を脱藩していますが、海外を視察するようになってから後藤象二郎と交流するようになったと考えられます。

 

1867年に薩長同盟に討幕の密勅が出されたことを知ると、大政奉還を建白しました。大政奉還により江戸幕府による政権は終わりました。なお、坂本龍馬については大政奉還直後に何者かに暗殺されました。

 

大政奉還と明治天皇謁見に向かうパークス一行の護衛が成果として認められ、後藤象二郎の石高は1500石になりました。明治政府から明治維新の功により賞典禄1000石が加増されました。

 

 

 

明治時代の後藤象二郎

 

 

後藤象二郎は大政奉還後明治政府に加わりました。明治政府では大阪府知事や参与などの要職に就きましたが、1873年の明治六年政変で征韓論争に敗れ、政府を去りました。西郷隆盛(さいごうたかもり)江藤新平(えとう しんぺい
)
らと共に政府を去りましたが、後藤は板垣退助(いたがき たいすけ
)
とともに言論による運動を展開します。この言論による運動は自由民権運動と呼ばれています。

 

後藤象二郎は自由民権運動で愛国公党という政党を立ち上げ、民撰議院設立建白書に署名しました。明治政府を去ると言論による運動を展開していましたが、後藤は政商となりました。

 

政商となると、政府が安く払い下げた官営模範工場や炭鉱の経営に乗り出します。後藤の経営はうまくいかず、明治政府が払い下げたものを別の商社に払い下げました。後藤が払い下げたものの中には高島炭鉱があります。高島炭鉱(たかしまたんこう
)
は後藤象二郎を経て土佐藩出身で三菱の岩崎弥太郎に払い下げられました。

 

政商から政党の結成に転身します。1881年、自由党の結成に関わりますが、政府に協力するようになり、大同団結運動は行き詰まりました。明治六年政変で明治政府を去っていましたが、黒田清隆(くろだ きよたか
)
内閣や松方正義(まつかた まさよし
)
内閣などで大臣を歴任することで政府に復帰しました。1894年に収賄事件が発覚し、責任をとって大臣を辞任しました。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は後藤象二郎について取り上げました。後藤象二郎は1896年に心臓病で亡くなりました。墓は東京都港区の青山霊園にあります。終わりに、後藤象二郎の子孫について取り上げます。長男は早くに死亡したため、次男から取り上げます。

 

次男は猛太郎で、ミクロネシアやマーシャル諸島などの南洋群島を日本で初めて探検した人物で知られています。探検だけでなく、積極的に事業を行っていたことでも有名です。しかし、金銭トラブルが多かったといわれています。

 

長女は早苗といいます。後藤象二郎と岩崎弥太郎(いわさき やたろう
)
との間で結婚を決めました。孫では川添浩史が挙げられます。港区麻生台にイタリアンレストラン・キャンディを創業しました。財界人や有名人が多く訪れます。後藤象二郎の子孫だけでなく、今後は激動の幕末を生き抜いた人物の子孫にも注目したいと思います。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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