戦国時代には多くの大名が領内の河川を整備するため、治水事業を行っていました。文武に秀でた明智光秀も河川を整備するため、治水事業を行っていました。今回は明智光秀の治水事業について紹介していきたいと思います。
戦国時代の有名な治水事業
戦国時代には各地で河川を整備して水が氾濫を起こさないように治水事業を行っていました。例えば、甲斐の虎で知られる武田信玄は甲斐の国に流れている御勅使川と釜無川の合流地点・竜王に堤防を築いて、河川が氾濫を起こさないように整備を行ったそうです。
信玄が築いたこの堤防は「信玄堤」と呼ばれ、現在でも残っています。また豊臣秀吉は伏見城を建築する前年、巨椋池の氾濫を防ぐために治水事業を実施。この結果、巨椋池近辺の作物収穫量が増加したそうです。
さらに秀吉の家臣・加藤清正も治水事業を行っています。彼は豊臣秀吉から肥後の半分を領土としてもらった際、清正の領土を流れる河川の氾濫を防ぐため、治水事業を実施。加藤清正の治水事業も成功をおさめ、領民に感謝されていたそうです。
武田信玄・豊臣秀吉・加藤清正は戦国時代に行われた有名な治水事業と言えるでしょう。明智光秀も上記三人のように治水事業を行いましたが、一体どこで行ったのでしょうか。
福知山市で行われていた光秀の治水事業
明智光秀はどこ治水事業を行っていたのでしょうか。明智光秀は治水事業を領内となった丹波で行っていたました。明智光秀は横山城を改修して福知山城とする際、福知山城近辺を流れている由良川の氾濫を抑えるために治水事業を行ったそうです。
光秀は治水事業を行う際、近隣の寺院から石塔を回収し、回収した石塔を石垣として堤防を作り、由良川の流れを変化させます。明智光秀は由良川の流れを変化させることに成功したおかげで、由良川の氾濫が無くなったそうです。明智光秀が由良川に作り出した堤防は「明智藪」として命名。
福知山では領民からしたわれた名君主
明智光秀は由良川の治水事業と並行しながら、福知山の町の人々へ地子銭と呼ばれる土地への税を免除する特権を付与しています。こうして明智光秀は福知山の町を改造し、後に三丹一と呼ばれる商業の町の基礎作りを施した事から、福知山の町の人々から大いに慕われることになります。
しかし明智光秀は本能寺の変で謀反を起こし、その後羽柴秀吉に敗北したため亡くなってしまいます。福知山の町の人々は明智光秀死後、彼の功績をたたえて御霊神社を建築。そして1737(元文2年)から御霊会を行い、光秀の功績をたたえつつ、無念のうちに亡くなった彼の霊を慰めているそうです。
現在福知山ではこの御霊会の伝統を受け継ぎ、御霊祭りとして毎年10月に開催され、多くの観光客が福知山を訪れ賑わっているそうです。
戦国史ライター黒田レンの独り言
今回は明智光秀の治水事業について紹介しました。ルイスフロイスは明智光秀を「残虐で謀略に長けた武将」と評価していました。しかし明智光秀は謀略に長けているだけではなく、内政をしっかり行い領地を治め、領民にもしっかりと心配りのできる優しい政治家の一面も持ち合わせていたのです。
羽柴秀吉も内政にも長けた武将でしたが、明智光秀も秀吉に負けないくらいの内政に長けていた武将と言えるのではないでしょうか。そして文武に秀でていた明智光秀だからこそ、厳しい実力主義の組織で構成されている織田家で一・二を争う出世頭として出世することができたのでしょう。
また織田信長も彼の実力を認めて織田軍の司令官クラスにまで昇進させたのではないのでしょうか。
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