三国志最大の戦の一つ赤壁の戦い。この戦いは曹操軍が江東に勢力を拡大していた孫権と荊州から逃亡していた劉備を撃破する事で、天下を統一するために行われた戦いです。
しかしこの戦いは孫権・劉備連合軍が曹操軍に大勝利した事で決着が付きます。孫権・劉備連合軍が曹操軍に勝つことができた要因は二つ有ります。一つ目はchopsticksさんの記事にもありますが、腸チフスが原因で孫権・劉備連合軍が赤壁の戦いに勝利することができたというものです。下記の記事にchopsticksさんの記事になりますので、ご覧下さい。
では孫権・劉備連合軍が赤壁の戦いに勝利することができた二つ目の原因は一体何なのでしょうか。それは孫呉の重鎮・黄蓋の計略が大成功したことです。彼がいなければ孫権・劉備連合軍が勝利できなかったかもしれません。
赤壁へ出陣
208年曹操は荊州を領土に加え、江東に勢力を保有している孫権を討伐するため、江東へ向けて大軍を引き連れて出陣。孫権は曹操軍を迎撃するため、周瑜を総司令官に任命して兵を与えて出陣させます。この時、黄蓋も周瑜の配下に加わって出陣することになります。そして曹操軍の大軍と孫権軍に加えて、孫権と同盟した劉備軍は赤壁の地でにらみ合うことになります。
火計を提案した黄蓋
黄蓋はこのまま曹操軍とにらみ合っていれば、いずれ数に劣る孫権軍が敗北する可能性が高いと考え、色々と考えを巡らせます。
そして黄蓋は周瑜の元へ行き「我が軍は曹操軍と比較すると少なく、このままでは曹操軍と持久戦をするのは不利だと思います。そこでこの状況を打破するためには火計を曹操軍へ行うのがいいと思います。
曹操軍は船と船の隙間がほとんどなく、火計を仕掛ければ曹操軍の船団全域に火が行き渡ること間違いありません。」と提案。周瑜は黄蓋の提案を受け入れて、火計を行うための準備を行い、黄蓋の作戦を決行することにします。
火計で呉軍は大勝利!!
黄蓋は自分の船に草や木をいっぱい載せ、草木に油をたっぷりとかけて曹操軍へ向けて出陣。黄蓋は火計を行う前に曹操軍へ降伏するための手紙を送っり、曹操軍から降伏を受け入れてもらえるように下準備も万全におこなっていました。
こうして黄蓋率いる船団は曹操軍の陣営へ向い、曹操軍の船団が駐屯している所で草木に火をつけて突撃させます。曹操軍は黄蓋の船団からの攻撃をかわすことができず、曹操軍の大船団に火が燃え移り、大損害を受けて撤退していくのでした。
こうして赤壁の戦いは黄蓋の提案した作戦によって大勝利します。
黄蓋がいたから大勝利することができた!?
赤壁の戦いは黄蓋の献策によって大勝利をおさめることができました。もし彼がいなければ赤壁の戦いに大勝利するのは、難しかったと思います。その理由は黄蓋のように曹操軍へ降伏を信用させるような人材が、孫呉陣営に少なかったことです。その証左を紹介したいと思います。まず一つ目の証左として黄蓋は、赤壁の戦いが行われる前に孫権が開いた会議に出席で、降伏派と見られていたことです。
黄蓋は曹操降伏派だった!?
正史三国志周瑜伝によれば、孫権が開いた会議で諸将は「曹操との戦力差ははっきりとしており、このまま戦っても勝つことが難しいので、曹操軍を迎え入れるのがいいでしょう。」と述べてます。
黄蓋がこのような意見を言ったと書かれていませんが、この意見を言った人と同じような意見を持っていたと推測できます。
なぜならば周瑜伝では上記で紹介した諸将以外、誰も発言をしなかったからです。そのため曹操軍の中では孫権の諸将の中で、黄蓋=降伏派と見られていた可能性があります。でもどうして曹操軍が孫権の身内で行われた会議内容を知っていたのでしょうか。
それは曹操軍の諜報機関が、孫呉の身内で行われた会議内容をキャッチすることに(もしくは曹操陣営へ情報を流していた武将がいたかもしれません)、成功していたからです。
不満を持っていた黄蓋??
そしてもう一つの理由として黄蓋が不満を持っていたと見られていた可能性があります。
黄蓋は自分よりも年下の周瑜が、赤壁の戦いで総司令官として就任。この事に黄蓋が不満を持っていると曹操軍の諜報機関が察知していた可能性があります。これらの理由から黄蓋が曹操軍に降伏したいとの手紙を送っても、怪しまれることなく信用されたのではないでしょうか。上記のことから黄蓋がいなければ、曹操軍に火計を行う事ができず、赤壁の戦いで勝利することが難しかったのではないかと推測するのですが、みなさまはどのように思いますか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は黄蓋と赤壁の戦いについて紹介しました。
彼が赤壁の戦いに従軍することができた事と曹操軍に疫病が蔓延していたこの二つの要因がなければ、赤壁の戦いに孫権・劉備連合軍が曹操軍に勝つことはできなかったと思いますが、みなさまはどのように思いますか。
参考 正史三国志周瑜伝・黄蓋伝など
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