蜀が夷陵の戦いで敗北したことによってどんな影響を受けたの?

2019年4月4日


 

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夷陵の戦いで負ける劉備

 

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)では、()(しょく)が戦い、そして蜀が敗北します。その後、見ているのが辛くなってくるほどに蜀は衰退の一途を辿っていくことになっていきます。今回はその夷陵の戦いでの敗北がどれだけ蜀のその後に影響を与えたのか、それを見ていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦死した蜀の未来を担う若者たち

馬良

 

夷陵の戦いでは指揮官を任された馮習(ふうしゅう
)
だけでなく、白眉(はくび)と呼ばれた馬良のような優秀な将軍が7名ほど戦死しています。

 

 

黄権

 

 

またそれ以外にも黄権を始めとした6名が呉に降伏しています。将軍が戦死するというのはほぼその部隊は壊滅状態なわけですから、名が残っていない一般兵は尋常ではない数が死んでいることが推察されます。

 

 

弩(ど)を発射させる蜀兵士達

 

 

そしてここで戦死した武将たちは歴史的に、名前を知られていない武将が多くいます。それはその武将たちの多くがここから活躍するはずだった蜀の未来を担う武将たちだった、つまり後任を失ったのですから、今後を任せられる武将たちがいなくなってしまったことにも繋がります。人的被害は色々な面からも大きすぎると言えるでしょう。

 

 

荊州を完全に失う

敗れる関羽雲長

 

蜀は夷陵の戦いの前の、樊城の戦い(はんじょうのたたかい
)
関羽(かんう)を失いました。一般的にはここで関羽を打ち取られたから夷陵の戦いに踏み切ったと言われていますが、失ったのは関羽だけではありません。関羽がいた荊州(けいしゅう)の土地もまた、失っています。この荊州は蜀にとっても呉にとっても重要な土地で、三国志(さんごくし)の中心とも言える場所に存在する大きな土地です。

 

 

祁山、街亭

 

 

劉備(りゅうび)の拠点とも言える蜀の土地というのは山が多く人が住みにくい、しかも平地でないから守りやすいけれど戦いに行きにくい狭い土地。夷陵の戦いに負けたことでこの荊州を奪還することは不可能になりました。これから天下を統一するために魏や呉と戦うためにも、人々を住まわせるためにも重要な荊州の土地を失ったのは大きな痛手だったのです。

 

 

 

劉備は文字通り、全てを失った

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

 

人も、土地も、戦争には食料やお金もかかるのでもっと多くの物資を劉備は夷陵の戦いで失ってしまったのです。そしてこれから三国を統一するという最大の目標も失ってしまいました。

 

 

劉備

 

 

しかも劉備の年齢はこの時、60近く。ここまで劉備は数多くの戦を負け、しかしそれでも再び立ち直って、立ち上がってきました。そこには若さがあり、支えてくれる仲間たちがいて、目標という輝くような未来があったのです。ですがそれは全て、この夷陵の戦いで潰えてしまいました。劉備は全てを失ったのです。

 

 

劉備の黒歴史

 

 

言ってしまうと定年退職した後の退職金を全て株に入れ込んでしまって全部失ったと言えばいいでしょうか。始めてのボーナスをつぎ込むのとはダメージが違います。その喪失感と目の前が真っ暗になる感じは、決して味わいたくはないけれど同情してしまいそうになるほどのダメージだったでしょう。これこそが、夷陵の戦いが蜀に与えた最大の影響だと筆者は思います。

 

 

 

皮肉にも「三国」が完全にできあがった時

三国志 まとめ

 

 

因みにここで(厳密に言うとこの少し後で)、三国志の「三国」が出来上がります。魏の曹操(そうそう)の後を継いだ曹丕(そうひ)禅定(ぜんじょう)により帝位に付き魏王となり、対抗して劉備が漢中(かんちゅうおう)を名乗り、そして呉の孫権(そんけん)が呉王を名乗って三国が出来上がるのです。三国志と言われているのに、その英雄たちが殆どいなくなってしまってから三国鼎立はなされるのです。そう考えると少し皮肉な名前とも聞こえますね。

 

三国志の主人公・劉備

 

キツイことを言うようですが、やはり劉備が起こしてしまった夷陵の戦い、そしてその夷陵の戦いが蜀の後世に与えてしまった影響は計り知れないことだったと思います。そして劉備の夷陵での敗北は結果的には魏から呉を離反させ、三国鼎立にも影響を与えた戦いとも言えるでしょう。

 

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

こうしてみると夷陵の戦いというのは、三国志の中でも大きな影響のある戦いであったことが分かります。何よりも蜀に与えてしまった影響も大きいのですが、三国鼎立にも、そして魏と呉にも大きな影響のあった戦いであると思います。今確かに歴史が動いた、そんな言葉が浮かんで儚く消えてしまうような、英傑たちの今までと今後を思わせる、三国志でも終盤の戦い、夷陵の戦い。ぜひそんなイメージを持ちながら、三国に思いを馳せてもう一度夷陵の戦いを振り返ってみて下さいね。

 

参考:正史 三国志 呉書(ちくま学芸文庫)

 

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夷陵の戦い

 

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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