老将・黄蓋(こうがい)は異民族討伐のプロだった

2015年7月16日


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黄蓋

 

蜀の老将・黄忠(こうちゅう)と間違う方もいると思いますが、別人です。今回は黄蓋(こうがい)になります。黄蓋(こうがい)と言えば呉の老将で赤壁の戦いで活躍した一人で有名ですね。

 

彼は、曹操を騙すため周瑜から棒叩きの計を受ける事になり黄蓋が周瑜に対する不満は周囲にも明らかでした。

 

むち打ちで裁かれる黄蓋

 

曹操軍のスパイもすっかりと周瑜と黄蓋の演技に騙され、曹操に誤った報告をしたことにより曹操も信じ、黄蓋の偽りの降伏を受け入れ、そして赤壁の戦いが開戦することになるのです。赤壁の戦い以外でも多くの功績を残している名将は、一体どんな人生を歩んできたのでしょうか。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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黄蓋ってどんな人?

黄蓋ってどんな人?

 

黄蓋(こうがい)、字名は公覆(こうふ)といい、呉の孫堅孫策・孫権に仕えた老将です。

 

黄蓋は若い頃に父親が亡くなり乏しい生活を余儀なくされました。普通ならグレたりするところですが、黄蓋は違います。常に志を抱き、働きながら上表文の書き方や兵法の勉強を励み並々ならぬ努力で今の地位を確保したというのも過言ではありません。郡の役人になった黄蓋は後に、孝廉に推挙されました。そして黄蓋の人生を大きく変える孫堅と出逢う事になるのです。

 

 



孫堅が挙兵すると黄蓋も賛同

孫堅が挙兵すると黄蓋も賛同

 

184年、孫堅が義兵を挙げると黄蓋も随従し、荊州南部で山越による反乱を平定。北では反董卓連合軍に参加し董卓を敗走させるなど功績が評価され別部司馬に任命されました。

 

 

孫堅が亡くなると息子の孫策・孫権に仕える

孫堅逝く

 

191年、孫堅が劉表に討たれると孫策・孫権に仕えて各地で数々の功績を上げていくのです。

 

 

呉の悩みの種 山越の存在

呉の悩みの種 山越の存在

 

長江下流では、山越(さんえつ)という異民族が昔から住んでいました。長年、山越はなかなか呉に服従しようとせず、呉が中原進出の機会を失ってしまったのも山越への対応に忙殺されたのが1つの原因です。

 

山越族から信服される黄蓋

 

呉は諸葛瑾の息子である諸葛恪(しょかつかく)が台頭するまで山越に悩まされる事になります。山越討伐で孫権からの信頼が厚かった黄蓋なかなか服従しようとしない山越が県に攻めこんできたと孫権の耳に入ると、さっそく山越討伐軍を編成しました。

 

山越族(異民族)

 

その中心となる人物は黄蓋でした。黄蓋はここでも山越を服従させ、後に山越が多く住む9つの県にも赴任することになりましたが、黄蓋の人柄によって山越も服従することになったのです。

 

三国志と異民族

 

 

黄蓋の人柄はどうだったの?

赤壁の戦いで活躍する黄蓋

 

黄蓋の風貌は威厳があり、部下には日頃から優しく接していた為、黄蓋が出兵する戦では兵士たちが率先し命を揮って戦う程、大変人望の厚い人でした。そして強きを抑えて弱気を助ける統治を行っていた事から、どの地も無事に平定されました。また、日頃から漢民族による圧迫を受けていた山越も黄蓋の人柄から信服し平穏に暮らす事が出来たのです。

 

夷陵の戦い

 

 

赤壁後の黄蓋は何をしていたの?

便所に放置される黄蓋

 

赤壁の戦いでは、第一線に立ち、開戦させた黄蓋ですが、運悪く流れ矢に当たって長江に落ちてしまったのですが、自軍に救出されました。しかし自軍は将軍・黄蓋だと分からなかった為、治療してもらえず放置されてしまいました(笑)

 

偶然、同僚の韓当が発見し部下に黄蓋を手当をさせるよう命じ、黄蓋はかろうじて助かる事が出来ました。もし韓当に発見されなければそのまま治療もしてもらえず亡くなったでしょう。赤壁の戦い後、武陵蛮が反乱を起こすと武陵太守に任命され鎮圧に当たる事になりました。

 

 

武陵蛮 vs 黄蓋兵500人

 

黄蓋兵が城を守る兵は僅か500人しかおらず、黄蓋は心理戦を使って武陵蛮と戦う事を決意。黄蓋は武陵蛮を城門をわざと開けて敵を半分ほど誘い込み一気に撃退し反乱を鎮圧しました。ここでも黄蓋は首謀者だけを誅殺し、首謀者以外の罪は問いませんでした。

 

黄蓋が亡くなったのはいつ頃?

 

黄蓋は反乱の度にその都度、平定をさせ孫権からも厚い信頼を得ていましたが、その後、黄蓋は病没したとされています。黄蓋の死去した年は史実には記されてないが、予想では215年とされています。というのは同時期になくなった孫権の従兄弟・孫瑜(そんゆ)がこの年に死去すると、弟・孫皎が黄蓋・孫瑜の配下を指揮をしたと記されている事から215年に亡くなったのではないか?と言われています。

 

 

黄蓋の人生

 

異民族が数年毎に反乱を起こす度に孫権から討伐要請を受ければ速やかに鎮圧し任務を達成。事務も長期間滞らせることがなかった為、孫権領内の人々は彼の死を大変悲しんだそうです。

 

『呉書』によると、黄蓋の肖像画を描いて季節ごとにお祭をした人々もいたと記録に残っています。孫堅の代から功績を残し、孫堅の子・孫権からの信頼も非常に厚く、部下にも信頼され、異民族や人々から好かれた黄蓋。呉の中では周瑜や甘寧、陸遜など有能な人物も多いですが老将・黄蓋もストーリーがあって面白いね。

 

 

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呉の武将

 

 

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数々のブレストと思いつきで場を散らかした後、権限委譲と言い放ち、kawauso編集長に丸投げし去っていく。インターネットの不特定多数無限大の可能性にロマンと情熱を捧げる「はじめての三国志」の創設者。創造的で自由な発想が称賛や批判を創発し、心をつかむコンテンツになると信じている。各メンバーのパーソナリティを尊重し、全員の得意分野を活かし、補完し合うチーム作りを目指している。

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