こんにちは。今回も「壬申の乱」についての謎に迫っていきます。どうぞお付き合いください。
「三国時代」の終焉を迎えた朝鮮半島では、朝鮮半島の雄「新羅」王国と、中国大陸の覇者の「大唐帝国(唐)」の間に戦争が勃発します。
日本古代史上最大の内乱の「壬申の乱」は、その「新羅・唐戦争」が切っ掛けで始まったという見方ができます。このとき、大海人皇子(天武帝)は、新羅びいきだったと言われています。
なぜだったのでしょうか?
詳しく見ていきましょう。
大海人皇子(天武帝)は未来を予測していた?
その可能性はあるのでは朝鮮半島の雄「新羅」と中国大陸の覇者「唐」が対決した場合、本来なら、大国で強国の唐の勝利が自然な見方ですから、巻き込まれた場合、その唐を支持するのが自然な流れだったのではないょうか?
しかし、大海人皇子は、あえて、新羅を支持したのです。それは、大海人皇子には、広く世界が見えていたからとは考えられないでしょうか。
つまり、新羅は、少なくとも、唐に負けないことを予測していたからではないでしょうか?
それだけ、当時の新羅に勢いがあったと言えるでしょう。
新羅の隆盛!
現に、唐VS新羅の戦争が勃発した頃、新羅は連戦連勝でした。
671年、新羅軍は、唐軍を破り、八十もの城を奪います。また、海上においても、黄海において、新羅軍は、唐軍に勝利します。さらに、この前年、戦争勃発前には、新羅は、滅亡に追い込んだ、朝鮮半島の雄「高句麗」の遺臣たちの勢力を取り込むことに成功しているのです。
「壬申の乱」勃発が、672年でしたから、その前年までに、新羅が優勢の状況が出来上がっていました。そうなると、多勢の人が、新羅が唐を撃退するのでは?という予測を立てるのも頷けますね。
しかし、唐は大国ですから、そのまま負け続けることはない、そういう見方をするのも自然な見方でしょうか?
だからこそ、壬申の乱で、大海人皇子に相対した、大友皇子の勢力は、唐を支持したのです。
そして、その予測も現実になるです。
壬申の乱が勃発したのが、672年の7月~8月頃です。
同時期に、唐軍が、平壌を始め、幾つかの城を占領し、反撃に転じます。
その数ヶ月後の12月には、唐軍が、新羅軍と白氷山にて激突します。
このとき、唐軍が新羅軍を破ります。
このあたりは、唐軍の巻き返しの時期になるのです。その状況は、しばらく続きます。このときの情勢を見るなら、新羅に味方するのは、誤りだった と考えそうなものです。もしかしたら、このとき、大海人皇子(天武帝)は、自身の判断は誤りだったと一瞬でも感じたかもしれませんね。
しかし、最後は、少なくとも、新羅は負けないと踏んでいたのでは?と考えます。
つまり、それは、新羅が強いからというよりは、むしろ、問題は、唐にあったと言えるでしょうか。
どういうことでしょうか?
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
大海人皇子(天武帝)に大唐帝国の綻びが見えていた?
ここからは、当時の中国大陸の覇者の大唐帝国に目を向けていきましょう。
当時の皇帝は、三代皇帝の「高宗」でした。
しかし、高宗は、病弱で、積極的に政治を行う人物ではなかったと伝わっています。代わって、ほとんど、実際に政治を取り仕切っていたと言われているのが、
高宗の妃の「武后」でした。この「武后」こそが、後の中国史上唯一の女帝「武即天(即天武后)」なのです。
この時期、まだ、武即天は、あくまで唐の三代皇帝の妃という立場でした。しかし、病弱の夫に代わり、実際に政治を取り仕切り、その上に、対外戦争にも積極的な姿勢でした。そもそも、朝鮮半島の「三国時代」の三国の均衡を崩すために、唐側から、新羅に近づいたとも考えられるでしょうか?
新羅を応援し、他の二国、「百済」と「高句麗」を滅ぼしたのです。いずれは、新羅を飲み込み、朝鮮半島全体を、唐の支配下に置こうとの思惑だったのではないか?と。そして、それは、武即天の策略だったのでは?と考えられるのです。
ただし、それに対する反発もあったと考えます。唐の中央政府の中での反発が。さらには、唐の国境付近の地域の民族が、反旗を翻そうという勢いもあったようです。だから、いくら、当時、強国で大国だった唐でも、崩壊しかねない状況だと見ている知識人たちも、少なからずいたと考えてよいでしょう。
それは、過去に、前・後を併せて、400年続いあた「漢」帝国が崩壊し、群雄割拠し、中国大陸の「三国時代」に突入した経緯があったからでしょう。
ですから、同じ末路を唐も辿るかもしれない。そう考えていた人もいたと考えてよいでしょう。
特に、その当時、その雰囲気があった。唐帝国の内外に伝わっていた可能性があった。そして、大海人皇子(天武帝)には、それが見えていた可能性がありますね。
女帝の時代に突入!
しかし、それは、大海人皇子(天武帝)単独の考えでもないような気がするのです。
それは、妻の鸕野讚良皇女の存在がいたからです。彼女こそ、後の「持統天皇(持統帝)」です。
「壬申の乱」の直前、鸕野讚良は、大海人皇子とともに、吉野山に隠屯していました。ずっと共に生活していたので、相談することや、助言することもあったのではないでしょうか?
大陸での異変も、同じ女性である妃が力を発揮していたので、共感するところも、多かったかと考えます。後の日本古代史を見ると、持統帝の存在が強く感じられてなりません。
それでは、次回は、その持統帝について、詳しく見ていきましょう。当時は、フェミニズムの古代日本史の時代と言えたのでしようか?
お楽しみに。
【主要参考文献】
・内戦の日本古代史 邪馬台国から武士の誕生まで (講談社現代新書)
・壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか (祥伝社新書)
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
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