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【壬申の乱の謎】天武帝は新羅と同盟を結んでいた?大海人皇子が予測した未来とは?

2019年5月13日


 

コーノヒロさん(はじめての三国志ライター)

 

こんにちは。今回も「壬申の乱(じんしんのらん
)
」についての謎に迫っていきます。どうぞお付き合いください。

 

 

 

「三国時代」の終焉(しゅうえん)を迎えた朝鮮半島では、朝鮮半島の雄「新羅(しらぎ)」王国と、中国大陸の覇者の「大唐帝国((とう))」の間に戦争が勃発します。

 

日本古代史上最大の内乱の「壬申の乱(じんしんのらん
)
」は、その「新羅・唐戦争」が切っ掛けで始まったという見方ができます。このとき、大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武帝)は、新羅びいきだったと言われています。

 

なぜだったのでしょうか?

詳しく見ていきましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大海人皇子(天武帝)は未来を予測していた?

 

その可能性はあるのでは朝鮮半島の雄「新羅(しらぎ)」と中国大陸の覇者「唐」が対決した場合、本来なら、大国で強国の唐の勝利が自然な見方ですから、巻き込まれた場合、その唐を支持するのが自然な流れだったのではないょうか?

 

しかし、大海人皇子は、あえて、新羅を支持したのです。それは、大海人皇子(おおあまのおうじ
)
には、広く世界が見えていたからとは考えられないでしょうか。

 

つまり、新羅は、少なくとも、唐に負けないことを予測していたからではないでしょうか?

それだけ、当時の新羅に勢いがあったと言えるでしょう。

 

 

 

新羅の隆盛!

 

現に、唐VS新羅の戦争が勃発した頃、新羅は連戦連勝でした。

 

671年、新羅軍は、唐軍を破り、八十もの城を奪います。また、海上においても、黄海(こうかい
)
において、新羅軍は、唐軍に勝利します。さらに、この前年、戦争勃発前には、新羅は、滅亡に追い込んだ、朝鮮半島の雄「高句麗(こうくり
)
」の遺臣たちの勢力を取り込むことに成功しているのです。

 

「壬申の乱」勃発が、672年でしたから、その前年までに、新羅が優勢の状況が出来上がっていました。そうなると、多勢の人が、新羅が唐を撃退するのでは?という予測を立てるのも頷けますね。

 

しかし、唐は大国ですから、そのまま負け続けることはない、そういう見方をするのも自然な見方でしょうか?

 

だからこそ、壬申の乱で、大海人皇子に相対した、大友皇子の勢力は、唐を支持したのです。

そして、その予測も現実になるです。

 

壬申の乱が勃発したのが、672年の7月~8月頃です。

同時期に、唐軍が、平壌を始め、幾つかの城を占領し、反撃に転じます。

 

その数ヶ月後の12月には、唐軍が、新羅軍と白氷山にて激突します。

このとき、唐軍が新羅軍を破ります。

 

このあたりは、唐軍の巻き返しの時期になるのです。その状況は、しばらく続きます。このときの情勢を見るなら、新羅に味方するのは、誤りだった と考えそうなものです。もしかしたら、このとき、大海人皇子(天武帝)は、自身の判断は誤りだったと一瞬でも感じたかもしれませんね。

 

しかし、最後は、少なくとも、新羅は負けないと踏んでいたのでは?と考えます。

つまり、それは、新羅が強いからというよりは、むしろ、問題は、唐にあったと言えるでしょうか。

 

どういうことでしょうか?

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門はじめての邪馬台国

 

大海人皇子(天武帝)に大唐帝国の綻びが見えていた?

 

ここからは、当時の中国大陸の覇者の大唐帝国に目を向けていきましょう。

当時の皇帝は、三代皇帝の「高宗」でした。

 

しかし、高宗は、病弱で、積極的に政治を行う人物ではなかったと伝わっています。代わって、ほとんど、実際に政治を取り仕切っていたと言われているのが、

高宗の妃の「武后」でした。この「武后」こそが、後の中国史上唯一の女帝「武即天(即天武后)」なのです。

 

この時期、まだ、武即天は、あくまで唐の三代皇帝の妃という立場でした。しかし、病弱の夫に代わり、実際に政治を取り仕切り、その上に、対外戦争にも積極的な姿勢でした。そもそも、朝鮮半島の「三国時代」の三国の均衡を崩すために、唐側から、新羅に近づいたとも考えられるでしょうか?

 

新羅を応援し、他の二国、「百済(くだら)」と「高句麗(こうくり
)
」を滅ぼしたのです。いずれは、新羅を飲み込み、朝鮮半島全体を、唐の支配下に置こうとの思惑だったのではないか?と。そして、それは、武即天の策略だったのでは?と考えられるのです。

 

ただし、それに対する反発もあったと考えます。唐の中央政府の中での反発が。さらには、唐の国境付近の地域の民族が、反旗を翻そうという勢いもあったようです。だから、いくら、当時、強国で大国だった唐でも、崩壊しかねない状況だと見ている知識人たちも、少なからずいたと考えてよいでしょう。

 

献帝

 

それは、過去に、前・後を併せて、400年続いあた「(かん)」帝国が崩壊し、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)し、中国大陸の「三国時代」に突入した経緯があったからでしょう。

ですから、同じ末路を唐も辿るかもしれない。そう考えていた人もいたと考えてよいでしょう。

 

特に、その当時、その雰囲気があった。唐帝国の内外に伝わっていた可能性があった。そして、大海人皇子(天武帝)には、それが見えていた可能性がありますね。

 

女帝の時代に突入!

 

しかし、それは、大海人皇子(天武帝)単独の考えでもないような気がするのです。

それは、妻の鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)の存在がいたからです。彼女こそ、後の「持統天皇(じとうてんのう
)
(持統帝)」です。

 

「壬申の乱」の直前、鸕野讚良(うののさらら)は、大海人皇子とともに、吉野山に隠屯していました。ずっと共に生活していたので、相談することや、助言することもあったのではないでしょうか?

 

大陸での異変も、同じ女性である妃が力を発揮していたので、共感するところも、多かったかと考えます。後の日本古代史を見ると、持統帝の存在が強く感じられてなりません。

 

それでは、次回は、その持統帝について、詳しく見ていきましょう。当時は、フェミニズムの古代日本史の時代と言えたのでしようか?

お楽しみに。

 

【主要参考文献】

壬申の乱―天皇誕生の神話と史実 (中公新書)

天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀 (角川選書)

内戦の日本古代史 邪馬台国から武士の誕生まで (講談社現代新書)

壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか (祥伝社新書)

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門

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大和朝廷

 

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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