三国志のきっかけとも言われている黄巾の乱、その乱を引き起こしたのはある宗教です。その宗教の名前は大平道、つまり黄巾の乱とは宗教戦争とも言える戦争であり、争いだったのです。
今回はこの大平道について知って頂きながら、大平道が目指したのは一体何だったのかを考えていきたいと思います。
太平道が生まれたきっかけ
天災、政治の腐敗によって元々低くなっていた漢王朝の権威は地に落ち、民衆の苦しみは増すばかりだった時代に現れた救世主、それが張角という人物です。
張角は不思議な術を操ったといわれており、人々の病を治したり、天候を操るという奇跡を起こして回りました。
この張角が引き起こした奇跡について、三国志演義の方では「山の中で南華老仙という仙人から太平要術の書を授けられた」となっていますが、実際にはどのような経緯で張角がこのような奇跡を起こしたのかは分かっていません。
しかし事実がどうであれ張角は当時の民衆から見れば救世主でした。
多くの民衆は張角の元に集まって大きな宗教団体となり、約10年間で数十万の信徒を得ました。
この宗教団体こそが大平道です。
そして彼らは妥当漢王朝の戦、黄巾の乱を画策します。
教祖・張角の早すぎる死
黄巾の乱は突発的に勢いで始められた訳ではありません。
入念な準備がされて始まる予定だったのですが、その事前準備がうまくいかないばかりか、何と張角自身が黄巾の乱の開始直後に病死します。
いきなり病死ということもないでしょうから、以前からすでに体調を崩していたのではないでしょうか?
そう考えると事前準備が失敗したのも、張角という指導者が失われたからかもしれませんね。
しかし張角が病死したからといってすべてをいまさらなかったことにはできません。この時には既に漢王朝の方でも討伐軍を結成していましたので、各地で戦が起こります。これこそが黄巾の乱です。
しかし既に指導者がいなくなっていた黄巾賊たちは鎮圧されていき、太平道はわずか7ヶ月でその活動を停止することになりました。
暴走を続ける大平道
しかし、黄巾賊はこれで終わってしまった訳ではありませんでした。
寧ろここで終わってしまっていれば、黄巾賊はまだ世の中を変えようとした一つの宗教団体で終わっていたかもしれません。
黄巾賊の目指す方向はどんどんと悪い方向に進んでいってしまうのです。
張角、そしてその弟二人という指導者を失ってしまった大平道の信者たち。今だ変わらない政治腐敗に不満を持つ民衆たち。
彼らは黄巾賊という名前を名乗って各地で暴れまわり、略奪などを繰り返しました。
この件によって黄巾賊は恐ろしい盗賊の集まりのようなイメージを持たれるだけでなく、当時でも民衆たちは「黄巾賊」を恐れていたといいます。
最初こそ王朝の腐敗から民を救うために結成されたのに、最後は指導者を失って悪に落ちてしまうのは皮肉と言うほかありませんね。
望まれたのは何だったのか?
ここで少し考えてみたいのが、民衆は「大平道に何を望んでいたのか」ということです。
もちろん救いを求めていた、現状を変えて欲しかったということもあるでしょう。
しかしそこにこの時代にもっとも大事であった「天意」を考えると、ある目的が浮かびます。
天意とは天の意思であり、これは帝にあると考えられていました。
しかし国が乱れると天意は帝にはない、それが例え自然現象であっても天災が起こればそれは帝が天意に認められていないと考えられているのです。
そこに張角、大平道が現れて天候を操るような奇跡を起こした…民衆は大平道に「天意を見出した」のではないでしょうか?
だから張角についていったし、そして張角亡き後はその大平道を「利用した」のだと思います。天意は大平道にあるのだから何をしてもそれは天の意思…そういった考えから最終的に大平道は大義名分として利用されたのではないか、と想像してしまいます。
求めたのは救いだったのか、それとも何をしても良いという大義名分だったのか…そう考えると、黄巾の乱というのは、とても深い意味を持った争いであったのではないでしょうか。
三国志ライター センの独り言
この時代の中国では天意と言うのは非常に重く、それは三国志の後半での禅譲の場面でも良く表れています。
三国志の時代ではどのような思想があって、どんな価値観が重要視されていたのか、それを知ってみると一つの場面の見方が大きく変わってきます。
大平道は結果として世を更に乱れさせてしまいましたが、その本質はどこにあったのか…それを知ると共に、三国志当時の世の中も深く知って欲しいですね。
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