乱世の時代、曹操はどこに埋葬されたのでしょうか。
三国志の魏を代表する人物だけに豪勢に葬られたのでしょうか、それとも墓荒しから守るためひっそりと佇んでいたのでしょうか。発掘から学者の調査までくわしく解説していきます。
西高穴村の村人が見つけた遺跡
三国時代の偉人の墓は中国人の間で長らく議論の的でした。曹操もその一人です。
当時、彼が天に召されると曹操の墓と噂される場所は72箇所もあったと言われています。墓荒らしから守るためでしょう。近代に入ると許昌説、河北説、安陽説、鶴壁説など様々な主張がなされました。2019年現在では「安陽県安豊郷西高穴村」の後漢時代の墓が曹操のものであると言われています。
発見される前、学者たちはずっと「漳河」の辺りが怪しいと睨んでいました。1998年4月、 漳河の南にある西高穴村で村人の徐玉超がある石碑を見つけました。そこには建武十一年(西暦345年)と書かれ、「魯潜」という偉い人のお墓だったのです。当時の軍のトップです。さらに魯潜の墓の表面には、こんな文字が刻まれていました。
「墓は高決橋より西に1420歩、南に170歩にあり、曹操の墓はその西北の角から西に43歩、北に250歩進んだところにある」これこそGPS並みに正確な曹操の墓の場所だったのです。
曹操の墓と墓荒らし
学者たちが魯潜の墓に記された場所へ行ってみるとすでに墓荒らしに遭っていることがわかりました。エジプトのクフ王のピラミッドもたびたび墓荒らしに遭っていたことから、支配者の運命なのでしょう。実際には北朝時代の西暦386年から581年に荒らされたようです。
2009年。河南省の考古研究所が発掘調査に乗り出します。中には二号墓と幅40メートルもの墓へと続く道がありました。深いところは14メートルに達し、中央の墓の前後に2つずつ合計4つの分室も見つかったのです。
そして青銅の鎧や弓、雲母のかけら、鉄剣、絵の描かれた石など稀に見る美しい装飾が出土品に施されていました。保護や研究の価値が高い遺跡であることは一目瞭然でした。発掘は国家プロジェクトとなります。
本当に曹操の墓なのか?
これだけの出土品がありながら、曹操の墓であるかどうか疑わしいと様々な議論が交わされました。墓荒らしから守るため72か所に墓を分散したり、学者の間でも候補地に4か所も上がっていたのですから当然です。
また、曹操の墓の位置を示す遺跡の発見が専門家ではなく、普通の村人だったことも疑いの一つでした。つまり、専門家たちは村人の徐さんを信用していなかったのです。
出土した遺跡の数々は国が緻密に調査しました。歴史学、漢文学、考古学、古代文学のありとあらゆる専門家が集結、疑いのある個所を徹底的に調査し、ロジックに基づいて、研究されました。
そして、ついに西高穴村の出土品は後漢時代、もしくは魏国のものであると断定されたのです。さらに墓の規模も大きく、古代の町との関連性も深いことが判明しました。「年代」、「規模」、「古代の町」の3つの点から80パーセント以上の確率で曹操の墓であるというのが専門家たちが出した結論でした。
いまだに議論はやまない曹操の墓
こうして曹操の墓だろうという結論は出ましたが、疑わしい点がいくつか存在します。一つは「魏武王」という文字がはっきりしないことです。北京師範大学の張国安博士は、その点において異論を唱えています。
二つ目は出土した場所が河南省であるという点です。曹操は河北のトップであったのだから、河北省にあるのが自然だと言うのです。つまり皇帝の墓としてふさわしくないと……。
また、曹操の娘である「曹憲」の墓が安徽省・亳州にあるのだから、河北省でなければ安徽省だと地元の河南省の人が主張しているのです。
三国志ライター上海くじらの独り言
中国で曹操は統治に優れた偉大な人物であるとされ、尊敬されています。日本人の抱く曹操のイメージとは違うのです。
それだけに地元の河南省で発掘されたにも関わらず、地元の人は「曹操の墓ではない」と言っているのですから、奇妙ですね。いずれにしろ歴史ですから推測に過ぎません。
私見では曹操の墓は他にもあり、墓荒らしに遭わないよう曹一族だけが知る場所にひっそりと埋葬されたと考えています。いわゆる分祀です。
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