戦国最強の騎馬隊を率いて織田信長、上杉謙信、北条氏康、徳川家康など多くの戦国大名を恐れさせた武田信玄。
彼は京都へ上洛する作戦の途中で亡くなってしまいますが、彼の死因は一体何なのでしょうか。
今回は武田信玄の死因について紹介したいと思います。
関連記事:武田信玄とはどんな人?天下人信長・家康を震わす甲斐の虎
関連記事:武田信玄に謎が多すぎる!肖像画や信玄の軍師、死因などの謎を紹介
武田信玄死す!!
武田信玄は京都へ上洛するため、自慢の甲州騎馬隊を筆頭に数万の軍勢を率いて出陣。武田信玄は東海地方に勢力を伸ばしていた徳川家康の軍勢を三方ヶ原の戦いでボコボコにした後、尾張へ向けて進軍していました。
徳川家康は三方ヶ原の戦いで信玄率いる軍勢にボコられ、側近の武将達数人と共に本拠地・浜松城へ逃亡します。徳川家康は退却している最中、馬にまたがりながら脱糞。
それほど武田信玄率いる騎馬隊は強烈な強さを持ち、恐れられていた事が伺えます。さて話を元に戻しましょう。
武田信玄は徳川家康を打ち破った後、三河・野田城を攻略した後、長篠城に留まります。武田軍は長篠城に留まったのち、尾張へ向かうのかと思いきや、いきなり軍勢を退却。武田信玄はどうして撤退したのか。
それは武田信玄が長篠城にとどまっている時に病状が悪化し、亡くなっていたからです。
武田信玄の死因は癌?
武田信玄は上洛作戦を行う際、一人の医者を連れていました。武田信玄の医者・御宿監物は武田信玄の調子が悪くなると彼に薬を処方し、容態の悪化を防いでいました。
しかし武田信玄の病状はどんどん悪化し、御宿監物の見立てによると武田信玄に癌があることを確認。御宿監物は武田信玄に病状の事を伝えませんでしたが、信玄の重鎮・山県昌景・馬場信春・武田勝頼などに伝えます。
彼ら重鎮は武田軍を武田信玄に内緒で撤退。しかし武田信玄は甲斐へ帰ることができず、退却途中の信州駒場の地で亡くなってしまいます。武田信玄の死因は癌ですが、彼の死因には他の説があるのを知っていますか。
異説:武田信玄は鉄砲で死んだ!?
武田信玄の死因は戦場で亡くなったとされる説もあります。ここからは武田信玄が戦場で亡くなったとされる説を紹介しましょう。
武田信玄は三方ヶ原で徳川軍を打ち破った後、三河・野田城攻略戦を開始。武田信玄はこの時、徳川方の鉄砲使いの名人の射撃によって討ち取られたとされている説が、徳川家の記録に記されているそうです。
ついでにこの武田信玄を鉄砲で殺害した説は、織田信長の鉄砲の師匠で織田軍の鉄砲隊を作り出した橋本一巴が主人公になっている小説・雷神の筒でも、この説がとられています。しかし武田信玄が敗北することない攻城戦の最前線へわざわざ視察しに来るでしょうか。
武田信玄が攻城戦へ視察にしてきたと仮定し、わざわざ敵軍から見えやすく、鉄砲の射程が届く範囲へくるのでしょうか。これらの事を考えるとこの説は徳川家を持ち上げるために作り出した異説と考えられると思われます。
戦国史ライター黒田レンの独り言
武田信玄は上洛作戦途中で病死してしまいますが、病気を発病しなかった場合、京都へ向かうことが出来たのでしょうか。レンの推測ですが、武田信玄は上洛することが出来たと思います。
その理由を最後に少し語って終わりにしたいと思います。武田信玄が上洛作戦を展開した当時、織田信長は近江の大名・浅井家と越前の朝倉家と敵対。京都の足利義昭は武田軍がやってくることを知り、織田家へ反旗を翻しています。
さらに織田信長に降伏した松永久秀も武田軍上洛を聞き、不穏な動きをしていたそうです。武田信玄は織田家と敵対しているこれらの勢力を煽り、織田家へ攻撃させることができる状況でした。
もし武田信玄が彼ら敵対勢力と同盟を結んでしっかりと連携を図り、織田家を攻撃するように要請し、敵対勢力が一斉に織田家へ攻撃すれば、織田家を滅亡させるのは簡単だったでしょう。
もし武田信玄が敵対勢力と同盟を結ばなかったとしても、敵対勢力が織田信長の軍事行動に制限をかける抑止力となったはずです。織田信長は敵対勢力と戦うため、各地へ兵力を分散させることになったはずです。
そうなれば武田信玄は軍事行動に制限をかけられている織田信長を打ち破るのは、難しい事ではないと思われます。そのため武田信玄が万全な健康状態であれば、上記のような作戦を展開させ、目的地の京都まで一直線に向かうことができたとおもうのですが、皆様はどのように思いますか。
■参考文献 新人物文庫 武田信玄謎解き散歩など
関連記事:武田信玄の魅力とは?なぜ歴史ファンは武田信玄に魅了されるのか?
関連記事:織田信長と武田信玄が戦争になったのは徳川家康のせいだった!