戦国時代関東の覇者の地位を確立した北条家。この北条家は5代目当主・北条氏直の時代に豊臣秀吉の大軍の攻撃を受けて降伏。こうして関東の覇者の地位から転落することになります。ですが、どうして北条氏直は豊臣家と戦ったのでしょうか。
小田原城に籠城していれば、豊臣軍に勝つことができると考えていたのか。それとも違う理由で豊臣家と戦うことになったのか。もしくは豊臣家と戦うつもりなんてなく、何か事件が起きて致し方なく戦うことになったのか。
今回はこの理由について考えてみました。
「北条家 豊臣家」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
関連記事:後北条氏滅亡は氏政の判断ミスだった?
関連記事:石田三成(いしだみつなり)とはどんな人?戦術が苦手で人から嫌われてたけど秀吉の大事な家臣で友人思いの人だった!!
開戦した理由とは?
北条家は天正18年(1590年)に天下の大半を手中に収めていた豊臣家と戦うことになります。北条家はどうして豊臣家と戦うことになったのか。一般的に言われている開戦理由としては、開戦の前年1589年に北条家の家臣・猪俣邦憲が真田家の名胡桃城へ攻撃を仕掛け、占拠した事が原因とされています。
と言う事は北条家が領土欲に駆られて、名胡桃城へ攻撃を仕掛け、豊臣家と戦う事になっても勝てる算段が付いていたのでしょうか。
豊臣家と戦わないように外交していた!?
北条家は名胡桃城襲撃事件を起こしてしまいますが、豊臣家と積極的に戦うつもりはなかったように思われます。その理由の一つとして北条氏直は事件が発生するとすぐに豊臣秀吉の側近衆へ「名胡桃城はすでに真田家へ返還している。またこの事件は名胡桃城主の手紙を添えておきますので、しっかりと事件を解明してほしい。」と使者を派遣。
更に北条氏直は姻戚関係にある徳川家康へ「名胡桃城襲撃事件はこちらとしても予想外の事件です。どうか関白様へ取りなしていただけないでしょうか。」と手紙を送っています。だが徳川家康は上洛し小田原城攻略戦の軍議に参加していた為、北条氏直の手紙を受け取れず、豊臣秀吉へ取りなせませんでした。
このように北条氏直は豊臣家と決裂しないように外交努力をして、決戦を回避しようと考えていなかったことがお分かりになったと思います。
和戦どちらでもいいように準備していた!
北条氏直は名胡桃城の事件が起きる数年前から豊臣秀吉の実力を認め、叔父・北条氏規を豊臣秀吉の元へ派遣し、豊臣家と外交交渉をします。その結果北条氏直は秀吉と戦うよりは、「仲良くした方がいい」という考えをもっていました。
また北条家四代目当主・北条氏政は豊臣家と戦うべしと言う考え方でしたが、後に考え方を変え、「豊臣家と仲良くするためには自分が上洛しようと思っている」などと述べている書状が幾つか発見されています。
このことから北条家は四代目当主の北条氏政・五代目当主北条氏直が揃って豊臣家と仲良くしようと考えていたのがお分かりになったと思います。ですが北条氏直は万一豊臣秀吉と戦うことになった場合を想定して軍備を増強していましたので、和戦両面外交でどちらに転んでもいいようにしっかりと備えていました。
戦国史ライター黒田レンの独り言
どうして今回、日本の戦国時代のそれもマイナーな人物を取り上げたのかと言いますと、現在小田原城で戦国時代マンガ「センゴク権兵衛」とコラボして、原画展が行っているからです。
黒田レンも日本の戦国時代に興味を持っていた事と「センゴク権兵衛」が大好きなので、見学してきました。
その見学内容の記事は別途掲載される予定ですが、もし読者の皆様の中で小田原城を訪れる人が居たら、この記事を読む事によって、北条家の予備知識を備え、小田原城見学の役に立つのではないかなと思い書かせていただきました。
北条家は豊臣家と戦い敗北後どうなったのか。北条氏政や氏直親子の最後をざっくり紹介して終わりにしたいと思います。北条氏直は高野山へ謹慎することになり、後に大名として復活することになります。
また四代目当主・北条氏政や北条氏照らは自害。こうして小田原城の戦いは終幕することになります。そして小田原北条家を倒した豊臣秀吉の天下統一事業は、奥州の仕置きを終えて、完成することになります。
■参考文献 小田原城天守閣特別企画展「センゴク権兵衛原画展」に描かれた小田原~展示ガイドブック~など
関連記事:狸(徳川家康)とお猿(豊臣秀吉)の外交合戦が面白い!