姜維のキャリアってよくよく考えると不思議なところがありますよね。
蜀を支えていた人材というのは、たいてい劉備玄徳が生きていた時代のイケイケムードの時に集まった人たちですから、劉備死後、魏と蜀の国力差がどんどん開いている時期になってから加わった姜維は、キャリア設計としてはかなり異色です。
そのうえ少なくとも『正史』のほうに依拠するかぎり、魏で特に不遇だったようにも見えないのです。むしろ魏の国内に母親を置き去りにしての蜀入りというのですから、家族親戚の縁も失った孤独な後半生になったといえます。
老婆心ながら、ちょっと気になってくること。姜維はいったい蜀軍に入って幸せだったのでしょうか?
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この記事の目次
姜維の逸話から見えてくる「母子家庭での苦労人」としての姿
彼の生い立ちを『正史三国志』の「蒋琬費禕姜維伝」からおさらいしてみましょう。
正史の著者、陳寿の筆では、このように説明されています。
・姜維は幼くして父を失い、母と暮らしていた。
・父は異民族の反乱の際に身をもって郡将を守り、戦死した。
さらりと触れられているだけですが、お父様は相当な武人であり、最期も華々しいものであったと推測されます。
残された幼い姜維は母子家庭で育てられ、苦労をしたことも多かったでしょう。また父親の働きぶりや、死に方の見事さの話などを親戚からされて、男子としてはどのような心境だったでしょうか?
プレッシャーと感じていたのでしょうか。それとも「自分もいずれは一流の武人に!」という想いを強くしていたのでしょうか?
二十代の姜維が蜀軍に参加した経緯とは?
同じく「蒋琬費禕姜維伝」によれば、姜維の蜀入りの経緯は以下の通りです。
・二十七歳だった姜維は、街亭の戦いに魏の側の武将として参加していた
・そのとき、魏軍の将軍たちは相互の疑心暗鬼で混乱していた
・諸葛亮の軍勢出現の情報で天水の太守がなぜか戦場離脱してしまった
・それで姜維軍は前線に取り残されて帰る場を失い、やむなく諸葛亮に投降した
・そのときたまたま馬謖が街亭で敗北した
・泣いて馬謖を斬った諸葛亮が蜀の中央に「この姜維という人材はいいよ!」とめちゃくちゃ推挙してくれた
・それでなんとなく、諸葛亮と一緒に蜀に帰還した
だいたいこのような記述で綴られているのですが、率直なところ、話のつながりがいまいち釈然としない箇所であります。
『正史』に挟まれる裴松之の注釈が、姜維をめぐっていろいろと陳寿の本文と食い違う件
『正史』の特徴のひとつは、著者の陳寿の本文間に、後世の人物である裴松之がたびたび異伝や異論を注釈として挟み込んでくるところにあります。
この裴松之による注釈というのが、しばしば陳寿の人物観とは「ぶつかって」いて、作者と注釈者との「見解の相違」がしばしば面白い読みどころともなるのですが、たとえば姜維についても、「姜維は功名を樹立することを好む人物であった」という裴松之の注釈が入っています。
同じ「蒋琬費禕姜維伝」における裴松之の注釈では、こんなエピソードも紹介されています。
・姜維はもともと魏の郭淮と馬遵の部下だった
・三将にて軍を率いて巡察している最中に諸葛亮軍の出現の情報が入り、「こりゃやばい」と郭淮がさっさと退却してしまった為、残った馬遵と姜維の間もギクシャクした
・それぞれ「勝手に行動しよう」という流れになり、姜維は姜維でいったん冀県に戻ったが、いろいろあって諸葛亮との交渉役を任された
・そこで諸葛亮と会っていろいろと気に入られているうちに戦争が始まり、帰るに帰れなくなった姜維は、蜀に降伏して諸葛亮についていくことになった
・その後、離れ離れになった母親から、「魏に帰ってきてほしい」という手紙を受け取ったが、それに対して「良田を得た人間は生家の田など恋しくなくなるものですし、将来に大望のある男は故郷のことなど忘れるものです」という、かなり冷たい内容の返事を出した
こちらは、なんだか姜維の印象があまりよくない経緯説明となっています。
基本的には「功名や出世のためにやっているのではない!」というスタンスの英雄が多い蜀陣営の中で、「大望の為には家族も云々」と言い切ってしまっているというのは、ちょっと異色な雰囲気ではないでしょうか。
個人的な意見としては、いわゆる「意識高い系」のキャリア志向の人に感じるような、ちょっとした反発も感じてしまいます。
まとめ:そもそも姜維とその他の蜀の将達はうまくいっていたのだろうか
そういえば姜維はナリモノ入りで蜀に加わったように見えて、実はやけに彼をヨイショしているのは諸葛亮一人だったりします。
同じく正史の記述によると、
・投降した姜維を従えた諸葛亮は蒋琬に向けて手紙を書いた。
「この姜維という男は与えられた仕事を忠実に勤め、思慮精密であり、涼州における最高の人物である」
「度胸もあり、兵士の気持ちを深く理解し、漢王朝への忠心も高く、人に倍する才能を有している」
この手紙はなんだかやりすぎにも思えます。
三国志ライター YASHIROの独り言
現代にたとえれば、優秀な新卒を手に入れて舞い上がった人事担当者が、内定辞退を恐れるあまりめちゃくちゃ気を使っているような、大人の文章らしからぬ「興奮とあせり」を感じます。
泣いて馬謖を斬っちゃった直後なので、諸葛亮もなんだか冷静でなかったのかもしれません。そして現代でいえば、こういう経緯で入った若者というのは組織の中でいろいろとイヤな目にあい、うまくいかなくなるパターンです。
その後の蒋琬や費禕との微妙な関係を見ると、さらにこのあたりが、実際はどうだったのか心配になってきてしまいます。あくまで仮説ながら、もしかしたら姜維って仲間からはあんまりよく思われないタイプだったのかもしれません。
ナリモノ入りで蜀に加わったものの、同世代から理解を得られず孤立して生涯を終えた悲劇のヒーローなのか。それとも「男というものは大望の為には家族もなんとやら」な傲岸な「意識高い系」であり、周囲に反発されても仕方のない人だったのか。
ここは解釈が分かれるところと思いますが、皆さんは、どうお考えでしょうか?
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