彼は長坂の戦いで劉備の息子・劉禅を救出し、漢中争奪戦では少数の兵士で曹操軍の大軍を退けることに成功するなど、戦で数々の功績を残した人物です。ですが、趙雲は武勇だけに優れていた人物ではなく、国策関する事へアドバイスもできる人物だったのです。
今回はそんな趙雲のアドバイスをご紹介したいと思います。
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古の武将を引き合いに出してアドバイス
劉備は益州を平定した後、功績を挙げた人々へ褒賞として成都城内と城外にある建物と桑田などを与えようと考えます。この時趙雲は劉備へ「前漢の名将として知られる霍去病は敵対していた匈奴が滅亡していないという理由で、屋敷を新築することをしませんでした。
現在匈奴以上に強大な敵がいる中で諸将へ成都城内外の物を褒賞として与えるのではなく、戦禍にあった民衆達へ返還するのが筋だと考えます。戦禍にあった住民達へ物を返還した後に税や賦役を課せば、殿に対して反発を最小限に抑えるのではないでしょうか。」と進言。
劉備は趙雲の進言を採用して、差し押さえていた成都城内や城外の物をすべて住民へ返還し、その後賦役や税を課したそうです。このように趙雲は武勇だけではなく、政治向きの進言をできる人でしたが、他にもアドバイスをしていました。
時勢を読んだ進言
劉備は孫呉が同盟を破棄して、関羽を攻撃して討ち取り、荊州を強奪した事を知ると大激怒。劉備は孫呉を討伐するために大軍を率いて、出陣する決意を家臣達へ述べます。
この時趙雲は劉備へ「敵は曹家であって孫権ではありません。まずは魏を討伐するのが先かと勘考します。もし魏を討伐すれば呉はおのずと蜀へ降伏してきます。まずは軍勢を北上させて関中を平定して、中原へ打って出れば、中原の人々は我らを快く迎え入れてくれます。
このことからも魏を先に討伐すべきで、呉を討伐するべきではありません」と劉備が孫呉を討伐する戦へ赴くことを強く反対。ですが、劉備は義兄弟・関羽を殺害され、荊州も奪われてしまっていた為、趙雲の進言を取り上げませんでした。
その結果、劉備は夷陵で孫呉軍を率いていた陸遜の策略によって、大敗北することになります。時勢をしっかりと読んだ進言をしたと言えるでしょう。
筋が通らない事にはしっかりと反対意見を示す趙雲
趙雲は劉備死後、二代目皇帝劉禅の時代まで生き残ることになります。趙雲は諸葛孔明が軍を率いて魏を討伐する「北伐」をした際、彼も従軍することになります。
諸葛孔明の「北伐戦」は馬謖が街亭を守り切れなかった事がきっかけで、北伐は失敗に終わります。趙雲は諸葛孔明の蜀軍本隊へ加わらず、魏の曹真率いる大軍と激闘を繰り広げ、退けることに成功。
諸葛孔明は北伐の前線基地・漢中に帰還した際に知り、趙雲へ余った物資を彼の部下達へ与えようとします。すると趙雲は「丞相。我らは魏軍に敗北して撤退してきたのですよ。戦で勝利を収めた時に褒賞を賜るのはわかりますが、どうして敗北した時に恩賞を賜るのでしょうか。
これでは筋が通りません。我らに下さるはずの物資はすべて蜀の国庫へ納めるのが当然だと思います」と反対意見を述べます。諸葛孔明は趙雲の進言を聞いて納得し、余った物資を国庫へ納めるのでした。
このように趙雲は筋が通らない事にはきっぱりと反対意見を示す人物でしす。
三国志ライター黒田レンの独り言
趙雲は戦場において武勇を示して功績を残した人物として知られ、あまり政治に口出しをしない人物のイメージが強いと思います。ですが趙雲は政治向きのアドバイスをしっかりと行い、国政にも参加する知勇兼備の将軍で、彼の意外な一面紹介できたと思いますが、どうでしょうか。
■参考文献 正史三国志蜀書
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