広告

趙雲は孔明のようなアドバイスを劉備にしていた?実は軍師タイプだった?

2019年9月13日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

五虎大将軍の趙雲

 

忠義の臣で武勇に優れた劉備(りゅうび)の家臣・趙雲(ちょううん)

 

長坂の戦いでの趙雲

 

彼は長坂の戦いで劉備の息子・劉禅(りゅうぜん)を救出し、漢中争奪戦では少数の兵士で曹操(そうそう)軍の大軍を退けることに成功するなど、戦で数々の功績を残した人物です。ですが、趙雲は武勇だけに優れていた人物ではなく、国策関する事へアドバイスもできる人物だったのです。

 

今回はそんな趙雲のアドバイスをご紹介したいと思います。

 

関連記事:長坂の戦いの時、趙雲はどのくらい活躍した?二つの三国志を比較してみた

関連記事:趙雲と劉備は固い絆で結ばれていた?義兄弟も嫉妬するほどの二人の絆を紹介

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



古の武将を引き合いに出してアドバイス

劉備の下で働くと決めた趙雲

 

劉備は益州を平定した後、功績を挙げた人々へ褒賞として成都城内と城外にある建物と桑田などを与えようと考えます。この時趙雲は劉備へ「前漢の名将として知られる霍去病は敵対していた匈奴が滅亡していないという理由で、屋敷を新築することをしませんでした。

 

現在匈奴以上に強大な敵がいる中で諸将へ成都城内外の物を褒賞として与えるのではなく、戦禍にあった民衆達へ返還するのが筋だと考えます。戦禍にあった住民達へ物を返還した後に税や賦役を課せば、殿に対して反発を最小限に抑えるのではないでしょうか。」と進言。

 

劉備に褒められる趙雲

 

劉備は趙雲の進言を採用して、差し押さえていた成都城内や城外の物をすべて住民へ返還し、その後賦役や税を課したそうです。このように趙雲は武勇だけではなく、政治向きの進言をできる人でしたが、他にもアドバイスをしていました。

 

時勢を読んだ進言

父・関羽とともに亡くなる関平

 

劉備は孫呉が同盟を破棄して、関羽を攻撃して討ち取り、荊州を強奪した事を知ると大激怒。劉備は孫呉を討伐するために大軍を率いて、出陣する決意を家臣達へ述べます。

 

ブチギレる劉備

 

この時趙雲は劉備へ「敵は曹家であって孫権ではありません。まずは魏を討伐するのが先かと勘考します。もし魏を討伐すれば呉はおのずと蜀へ降伏してきます。まずは軍勢を北上させて関中を平定して、中原へ打って出れば、中原の人々は我らを快く迎え入れてくれます。

 

キレる劉備になだめる黄権

 

このことからも魏を先に討伐すべきで、呉を討伐するべきではありません」と劉備が孫呉を討伐する戦へ赴くことを強く反対。ですが、劉備は義兄弟・関羽を殺害され、荊州も奪われてしまっていた為、趙雲の進言を取り上げませんでした。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

その結果、劉備は夷陵で孫呉軍を率いていた陸遜(りくそん)の策略によって、大敗北することになります。時勢をしっかりと読んだ進言をしたと言えるでしょう。

 

筋が通らない事にはしっかりと反対意見を示す趙雲

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

趙雲は劉備死後、二代目皇帝劉禅の時代まで生き残ることになります。趙雲は諸葛孔明が軍を率いて魏を討伐する「北伐」をした際、彼も従軍することになります。

 

山頂に陣を敷いた馬謖

 

諸葛孔明の「北伐戦」は馬謖(ばしょく)が街亭を守り切れなかった事がきっかけで、北伐は失敗に終わります。趙雲は諸葛孔明の蜀軍本隊へ加わらず、魏の曹真率いる大軍と激闘を繰り広げ、退けることに成功。

 

曹操軍の輸送車を襲う趙雲

 

諸葛孔明は北伐の前線基地・漢中に帰還した際に知り、趙雲へ余った物資を彼の部下達へ与えようとします。すると趙雲は「丞相。我らは魏軍に敗北して撤退してきたのですよ。戦で勝利を収めた時に褒賞を賜るのはわかりますが、どうして敗北した時に恩賞を賜るのでしょうか。

 

これでは筋が通りません。我らに下さるはずの物資はすべて蜀の国庫へ納めるのが当然だと思います」と反対意見を述べます。諸葛孔明は趙雲の進言を聞いて納得し、余った物資を国庫へ納めるのでした。

 

このように趙雲は筋が通らない事にはきっぱりと反対意見を示す人物でしす。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

趙雲は戦場において武勇を示して功績を残した人物として知られ、あまり政治に口出しをしない人物のイメージが強いと思います。ですが趙雲は政治向きのアドバイスをしっかりと行い、国政にも参加する知勇兼備の将軍で、彼の意外な一面紹介できたと思いますが、どうでしょうか。

 

■参考文献 正史三国志蜀書

 

関連記事:なぜ趙雲は劉備に仕えたのか?損得勘定の心理とは無縁の忠義の漢?

関連記事:史実の趙雲を考察!脚色されてる理由が頷けるほど蜀への貢献度の高さ

 

民間伝承の三国志

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
はじめての三国志 プロフィール画像

はじめての三国志

「ゆるく、たのしく、わかりやすく」をコンセプトにした 歴史エンタメメディアです。
(®登録商標:第5800679号)

-三国志の雑学
-, , , , ,