戦の天才として、戦国史に名を刻んでいる上杉謙信。川中島の合戦も有名ですが、天下に向けて日の出の勢いだった織田軍を撃破した手取川の戦いは謙信の武勇の凄まじさを物語っています。しかし、そんな謙信と信長は一時期、非常に仲が良い間柄だったのです。そんな二人が決裂した原因は、なんと信長の連続ドタキャンでした。
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超低姿勢!謙信を立てまくる信長
上杉謙信と織田信長の関係は、永禄4年(1564年)以前に遡ります。当時の信長はまだ上洛どころか尾張統一さえ出来ていない田舎大名でした。一方の上杉謙信は、上杉憲政から名字と関東管領職を譲られています。関東管領と言えば、鎌倉公方を補佐する関東武士の名門、一方の織田家は尾張守護家の一守護代に過ぎません。
そこで信長は謙信ではなく、謙信の重臣、直江景綱に宛てて書状を出しその上で、どうか、この手紙を謙信公に見せて下さいと手紙の最期に書きかなりへりくだった文面を出しています。いつも強気なイメージの信長ですが、この頃はペーペー大名でかなり先輩格の強大な大名には気を配っているようです。しかし、この超低姿勢がその後のドタキャンに大きな影響を与えたのかも知れません。
皆んな仲良く、信長の空回り和睦交渉
当初は直江景綱を通した謙信との交流は1564年にはかなり縮まり直接的な手紙のやりとりになったようです。その後、織田と上杉は信長の息子が謙信の養子に入るという所まで行きます。結局、この養子縁組は上手くいかなかったのですが、それくらいに親密な関係にはなっていくのです。ただ、この頃の信長は、まだ上洛前であり上杉と結ぶメリットが見えませんが、或いは上洛の前に立ち塞がる美濃の斎藤氏への対策かも知れません。
永禄十一年(1568年)、信長は足利義昭を奉じる前段階で謙信に信玄との和睦を働きかけ同時に武田信玄と織田家の間で同盟を結びます。これは、なおも武田と反目する上杉との関係にヒビを入れかねない行為ですが信長は逆に足利義昭の名前で、上杉と武田の和睦仲介の労を取りました。
どうやら信長は本気で、武田と上杉の和睦を仲介するつもりだったようで上杉氏との交流も活発。謙信は鷹が好きな信長に奥州の鷹を贈り逆に信長からは毛糸の腹巻や兜、豹皮等をプレゼントしました。
この間、元亀元年(1570年)、信長と同盟関係の徳川家康が武田と手を切り上杉と結ぶなど雲行きは、どんどん怪しくなっていきますが、
それでも信長は、「俺は信玄とも家康とも仲が良い」事を謙信にアピールし、
「どうか御所様の顔を立てて武田と和睦して下さい。そうじゃないと、あなたも天下に顔が立ちますまい」と熱のこもった低姿勢な書状を出しています。
信玄と信長の関係が決裂!喜ぶ謙信
元亀三年(1572年)10月、武田信玄は遂に織田と断交し徳川領の遠江に向かって進発しました。これまで、自分なりに武田と上杉の和睦を図って来た信長は愕然、可愛さ余って憎さ百倍とばかりに猛然と怒ります。
信玄など武士の風上にも置けない卑劣な男だ。俺は二度と武田と同盟など結ばんぞ
怒った信長は、尚も同盟関係が継続していた上杉に対して誓約書を二通送っています。その内容は、
織田も上杉も二度と武田と手を結ばず協力して退治すべし、これを血判して血の盟約にしようじゃないか!
というなかなか激烈な内容です。
しかし、これは謙信にとっても渡りに舟の内容でした。
その頃の謙信は、武田信玄と手を結ぶ越中一向一揆、さらには大坂の石山本願寺が後援する加賀の一向一揆の抵抗に忙殺された上に関東でも武田と手を結んだ北条氏が厩橋、沼田、上野を狙っていて息つく暇もありませんでした。ここで織田が武田と手を切ってくれれば、武田の目は織田と徳川を警戒し上杉への負担が減る事を期待したのです。
織田信長初めてのドタキャン
元亀三年(1572年)12月、武田軍は、織田と徳川連合軍を蹴散らします。
翌、元亀三年、織田信長は、謙信に十一カ条の条文を送り、信濃・関東攻めについて準備をするように要請します。この中で信長は
「信濃・関東への軍事行動は、くれぐれも油断なさいませぬように、いい加減な態度でいたら、織田・徳川・上杉の同盟自体が間違いであったと後悔する事にもなりかねません」
と強い口調で警戒を呼び掛け、信濃攻めこそ同盟の肝と断じます。
これには謙信も喜んだでしょう。信濃は川中島の決戦を何度も繰り返してまで、武田から奪い取りたかった土地です。それを信長は信濃を武田から奪う事こそが同盟の目的だと言い切ってくれたのです。
さらに信長は越中にいた謙信に対して、一度春日山に帰還して信濃攻めの準備を整えるように要請し、タイミングを合わせて織田・徳川軍も背後から上杉勢を支援するという挟撃プランを提示します。
元亀四年、決定的な出来事が起きます。武田信玄が上洛の途中で健康を害して陣没したのです。信玄死去のニュースは秘匿されますが、4月中には謙信に伝わりました。
謙信「イエス!イエス!イエス!チャーンス!これで信濃は落ちたも同然じゃー!」
謙信は織田と徳川連合軍がやってくるのを一日千秋の思いで待ちます。ところが信長はとうとうやって来ませんでした。
理由は将軍足利義昭が、二月と七月に反信長で蜂起したせいでした。この戦いで信長は足利義昭を京都から追放、返す刀で浅井と朝倉を滅ぼしました。しかし、代わりに信濃攻めには全く間に合わず、謙信のほうでも越中で一向一揆が発生した為、兵を裂く事になり信濃攻めは不可能になります。
やる気がなくなる信長に謙信イラつく
まぁ、最初のドタキャンは色々な不可抗力が働いていて、謙信の方でも出兵できない事情があり、ドタキャンとは言えないかも知れません。
しかし、この後、上杉と織田の関係は逆転し、共同作戦を求める謙信に対し信長は援軍に消極的になる状況が増えていきます。
その大きな理由は、信玄の跡を継いだ武田勝頼が思った以上に有能で徳川の領地にちょくちょくちょっかいを出すようになったからです。もっとも、信長がいきなり謙信に背を向けたわけではなく、出羽米沢の伊達輝宗に対して、来年は武田を滅ぼすから協力して欲しいと要請したりしているので、一応武田撃滅の血の同盟は生きていました。
ところが天正二年(1574年)正月には武田勝頼が先に動いて東美濃に侵攻、信長と信忠父子が迎え撃ちますが、同地は山深い土地の為、両軍とも勝手がわからない間に明智城で武田に内応する武将が出て城が陥落したのです。同年二月、今度は上杉謙信が出陣し上野沼田に入ります。そして、徳川方の榊原康政に対して
「西上野に火を放つ、この機を逃すと武田氏を討つのが難しくなるから家康から信長に出陣を促すように諫言して欲しい」と書状を出します。
さらに沼田に到着した二月七日にも謙信は酒井忠次にも書状を出しました。
この頃、徳川軍は武田方の二俣城を攻撃していて、それを救援して武田方は沼田西上野から軍勢を派遣して二俣を援護していました。かくして、西上野が手薄になった隙を突いて謙信がやってきたわけです。
こうして謙信は徳川に地味に恩を売りつつ
「これだけ助けてやって、なお徳川が軍事援助をしてくれぬなら二度と援軍を請う事はない!」と恫喝しました。家康は、謙信の側近の村上国清に宛てて駿河出兵を約束します。ところが、信長は痺れを切らした謙信の恫喝も無視しました。
そればかりか信長は、謙信の共同作戦の要請を知らないかのように上洛。有名な蘭奢待を切り取るという事をやっています。この時に信長が何を考えていたのか分かる史料はありませんが、どう見ても、謙信の苦境を無視しているかのような行動です。
同年五月、武田氏は高天神城攻めを開始、徳川は織田家に援軍を要請し信長も急いで帰還して兵糧調達などを開始しますが、救援は間に合わず高天神城城主、小笠原氏助が勝頼に降伏して陥落します。その前の四月、謙信は孤立無援のまま、西上野の幾つかの城を攻略するものの武田氏と同盟を結んでいる北条氏が出陣し攻略は思うように進まず西上野の攻略は頓挫する事になります。
信長謙信に対してドタキャンを詫びるが・・
前回は謙信にも非があり、信長にも事情がありましたが、今回は一方的な信長のドタキャンでした。
謙信は信長に対して怒り心頭、激オコクレームを入れたようです。この激しいクレームに対し信長は弁解状を出しています。
「私が西上野に出兵しなかった事を御咎めのようですが、断じてぼーっとしてタイミングを逃したのではありません。
この所、私は五畿内と江北・越前の問題に忙殺され出兵する時間が無かったのです」
五畿内の問題は兎も角、江北と越前とは、浅井・朝倉の事を意味し、すでに昨年でケリがついた問題でした。信長は、とかく忙しかったんだと言いたいが為に言い訳に必死のようです。誠意が感じられない信長の弁解ですが、謙信はひとまず我慢して受け入れます。
そして改めて、同年、天正二年九月に共同作戦を申し入れます。当時、石山本願寺と激闘していて死ぬほど忙しい信長ですが、ここでも謙信の要請を受諾します。そして、
大坂本願寺については畿内の軍勢に任せます。
東国方面は、美濃、遠江、伊勢、三河、近江の軍勢で助勢しますから、本願寺方面の作戦が共同作戦に影響を与える事は御座いません。
では、日時については後日、改めて協議しましょう。
あなたの真実の友 信長より
みたいな事を書状で送り、今度こそ大丈夫と謙信を安心させます。同年七月、信長は熾烈を極めた長島一向一揆と戦い、九月には勝利します。そして、このまま関東に援軍を送るのかと思いきや、岐阜に帰ってしまうのです。
謙信は、またしても待ちぼうけを食らわされ、おまけに味方の簗田氏が北条氏に攻められ降伏してしまうという憂き目に遭います。一体、信長とは何なのか?あんなに自信満々に援軍を約束しておいてこんなに簡単にドタキャンするか普通・・謙信は困惑しますが、気が短い謙信にしては、それでも我慢し信長から送られる書状に返事を出したりしていました。
謙信と信長に決定的な破局が訪れる
謙信は表面上、信長と対立する事なく、天正三年(1575年)の長篠の戦いでは合戦が始まる直前に信長に陣中見舞いを出しています。信長はそれに急いで返事を書き、さらには合戦に勝利した一報まで謙信に出している事が分かるそうです。
さらに、謙信への返書でまた信長のリップサービスが炸裂します。
「いやー、もう本当にお待たせしちゃって、そろそろ本格的に信濃に出兵しようと思っています。何度か、そちらからも要請されていた事なのでそろそろ共同作戦で信濃と甲斐を平定しましょうぞ。武田を滅ぼすのはいつ?今川!なんちて、ウヒョ!」
※あくまでも意訳です。
ところが、この信長の援軍要請に今度は謙信が応えず共同作戦を放置して、越中に出兵してしまうのです。
(今になって、何が信濃攻めだよ、クソが)
謙信がこのように思ったのかどうかは定かではありませんが、これだけドタキャンされればそれ位思っても不思議はないでしょう。一方、共同作戦を謙信にドタキャンされた信長は、謙信の側近の村上国清に書状を出しています。
「約束した事は守らないといけないと思いまーす!
私はあなたのドタキャンで顔を潰され、世間に恥を晒しました本当に残念です」
自分の事を棚に上げた信長の書状ですが、この後、織田と上杉の関係は急速に冷え込む事になり、手取川の戦いに繋がっていくのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
上杉謙信には、織田信長から狩野永徳作の洛中洛外図屏風が贈られました。
そして、その時期は上杉謙信が西上野に出兵して徳川と織田軍の援軍を待っている時期に当たるのだそうです。
つまり、援軍を催促する謙信に対し、信長が「ゴメンね」の気持ちを込めてプレゼントしたのが豪華絢爛な屏風だった事になります。
しかしこのプレゼント、果たして効果があったのでしょうか?
その後も繰り返された信長のドタキャン、屏風を見る度に不実な信長を思い出し、怒りがぶり返す謙信。
そうだとすると、全く逆効果のプレゼントだったかも知れません。
参考文献:織田信長不器用すぎた天下人
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