天下人織田信長、そんな彼は生涯に何度も城を引越し、移動した先で巨大な城を築きました。実は当時、戦国大名が居城を移るのは極めて珍しい事で、信長のように何度も引っ越したケースはありません。信長が城を引っ越したのは、それだけ前線に近い場所で指揮を執る為と説明されてきましたが、実は、そればかりが理由ではなかったのです。
関連記事:織田信長は南蛮貿易からいろんなものを仕入れていた!?
関連記事:天下布武の安土城!織田信長はなぜ安土城を建てたのか?
この記事の目次
生涯に4度もお引っ越し、元祖引越し侍信長
織田信長は、その生涯で4度にわたり城を引っ越しています。最初は那古野城、次が清須城、三番目が小牧山城、そして岐阜城、安土城です。信長は大坂にも城を築く予定だったようで、もし実現していれば5度も引越していたかも知れず、まさに元祖引越し侍です。
これは当時極めて異例な事で、武田信玄も上杉謙信も毛利元就も、領土を拡大しても拠点は変更せずに同じ城に居続けました。ではどうして、信長だけは、何度も城を引っ越して行ったのでしょうか?
城を引っ越す事で敵陣に近くなるのは半分正解
従来の説では、信長は領土を拡大する度により敵に近い場所に拠点を移すと考えられていました。実際、小牧山城は美濃攻略の為、信長が清須城から引っ越した城ですし、岐阜城に引っ越してから信長は天下布武の朱印を使い始めました。
しかし、これは半分しか正解ではありません、領土が拡大したから城を引っ越すのであれば、毛利元就も一代で勢力を拡大したのですから、大和郡山城を引っ越してもよさそうなものですが、規模は拡張したものの引越してはいません。領地が広がったから城を新しい戦地に引っ越すのは普遍的な事ではないのです。
信長の引越しは軍団そのものの引越しだった
他の戦国大名に比べて異常に数が多い信長のお引越し、その謎を解くカギは、信長の城の巨大さにあります。晩年に築城した安土城が巨大なのは有名ですが、まだ天下布武に乗り出す前の清須城も、天守閣は持たないものの当時の基準より遥かに巨大な城だったと言うのです。
それは、権力者にありがちな巨大な城を造る事で己の権勢を見せびらかす為でしょうか?いいえ、その心理的効果もあったでしょうが、信長の視点はそこにはありませんでした。実は清須城は、その城下に家臣の屋敷が立ち並ぶ巨大な人口を持つ城だったのです。つまり、信長の引越しは信長一家のみではなく、その数万の軍団が一斉に引っ越すという民族大移動のようなスケールの大きなものでした。
引っ越していたのは信長の常備軍!
そして、清須城の城下町に住んでいたのは、信長の家来とその配下の兵士だったと考えられています。兵士と言っても当時の一般的な農兵ではなく、戦争に従事する事でお金をもらう常備軍だったと考えられています。信長の軍勢は、他の大名のように普段は農業に従事して、戦争の場合だけ領国のあちこちから集まるわけではなく、信長が居住する城の城下町に固まって住んでいたのです。
だからこそ、その機動力を最大限に生かすべく、信長は引っ越す際には城を拡張して巨大にし、その常備軍が全て入るようにしたわけです。
若い頃の信長に常備軍なんていたの?
しかし、安土城を築城した頃の信長ならいざしらず、まだ尾張統一さえ果たしていない時代の尾張の弱小大名に常備軍を置く財力があったのでしょうか?実は、信長公記などには、小姓衆や馬廻り衆という名前で信長が強力な直臣を置いている様子が分かります。例えば、桶狭間よりも6年前の天文二十三年に起きた村木城の戦いでは、信長公記によると以下の記述が出てきています。
信長は南側の攻めにくい所を引き受けて兵を配置した。若武者たちは我劣らじと堀を登り突き落とされてはまた這い上がる。負傷者死者の数も分からぬ程であった。
また、別の個所では、
信長のお小姓衆の歴々も数知れず負傷・討ち死にし、目も当てられぬ有様であった。
このようにあり、信長が大勢の若武者、そしてお小姓と呼ばれる直臣を抱えていた様子が分かります。彼らが農兵でない事は、信長の号令一下、我劣らじと塀をよじ登り、突き落とされても這い上がるという高い闘争心からも窺い知れます。
この他にも信長公記には、槍の者、弓衆、鉄砲衆という記述があります。その数については、信長が初めて斎藤道三と会見した時に、お供が八百人に、朱槍が五百、弓・鉄砲五百を持たせ・・という記述もあり、少なくとも千人単位で常備軍を持っていたと考えて間違いないと思います。
信長の富は津島の収益がもたらした
でも、そんな常備軍を信長はどうやって維持したのでしょうか?それは、津島という港を信長の祖父の信定の時代から抑えていたお陰だと言われています。津島は尾張と伊勢を結ぶ中継ポイントで西日本と東日本の中間点、さらには木曽川の支流大川と天王川の合流地点で尾張と美濃の玄関口であり、また牛頭天王社の門前町としても栄えていました。信定から津島を引き継いだ信秀は、さらに津島との結びつきを強化したそうです。
この信秀の財力は、朝廷の禁裏修理費として銭四千貫文をポンと寄付した程でした。銭四千貫文とは、石高で一万六千石、四万石の大名の一年分の年貢に匹敵します。信秀は尾張の北っぺりしか支配しておらず、禁裏の修繕費は津島から揚がる税収が大部分を占めていたと考えられるのです。津島から得られる銭の収入、これが領地の大きさでは測れない振興勢力織田信長の底力だったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
まとめると織田信長は津島から揚がる通行料で領地の大きさよりも遥かに大きな経済力を持ち、その銭の力で千人規模の常備軍を編成し、この常備軍ごと城を引っ越していき、常に前線で指揮を執る事で、常に最高のパフォーマンスを戦いで発揮しました。そして大きな常備軍を入れる為に、その城の規模は巨大になっていったのです。
参考文献:桶狭間は経済戦争だった 戦国史の謎は「経済」で解ける
関連記事:今川義元はなぜ桶狭間の戦いで織田信長に負けたのか?
関連記事:織田信長は迷信深かった?彗星を恐れた信長