読者の皆様も中国に行ったら、旅行に行きたい場所はたくさんあると思います。紫禁城・長安(西安)・上海・・・・・・数えたらキリがありません。でも、筆者はなんといっても行きたい場所は万里の長城です。そこで今回は、あの有名な万里の長城のセキュリティについて解説していこうと思います。
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秦代の万里の長城はセキュリティは万全ではない
万里の長城を作った人と言えば・・・・・・「大工さん!」と筆者の高校時代の世界史の先生がくだらない発言を飛ばしていました。話がそれたので戻します。作った人は始皇帝です。しかしながら、始皇帝が作ったとされる万里の長城は思った以上に残されていません。
実は教科書に掲載されている万里の長城の写真は明(1368年~1644年)の時代に増築されたものでした。
それじゃあ秦代の万里の長城はどこなんでしょうか?秦は戦国時代の燕・趙が建設した長城を綺麗に修復して繋げてみせます。その長城は現在の甘粛省から朝鮮半島まであったようです。高さは2~5メートルほどであり、人が乗り越えられないくらいにしていました、ただし、明代のような防衛機能を誇っていたわけではないようです。NHKの特集で現存している秦代の万里の長城を見ましたが、人が肩車をしたり、はしごをかけてしまえば昇れてしまう程度の高さでした。
明代になってセキュリティを強化するも・・・・・・
さて時代は流れていきますが、漢(前202年~後220年)以後の王朝は、あまり万里の長城の修復は熱心ではありません。明の初期も一緒でした。明の初代皇帝朱元璋(洪武帝)も国内の反乱鎮圧や法律の制定に忙しくて対外政策に構っていられずに生涯を終えます。
考え方が変わるのは3代目の皇帝である永楽帝からでした。永楽帝はモンゴルへの遠征を繰り返しており、また首都もモンゴルに近い北京にしたことから防衛のことを少しは考えるようになります。ところがそれを実行に移す前に永楽帝はこの世を去りました。動いたのは第5代皇帝の宣徳帝(宣宗)の時代からでした。
さらに本格化したのは第6代正統帝(英宗)の時代です。彼はモンゴルの部族であるオイラトのエセン=ハンと戦って敗北して捕虜にされました。この事件を「土木の変」と言います。
第9代皇帝成化帝(憲宗)の時代になると、初期の頃の対外積極政策は影を潜めてしまいました。成化帝は万里の長城を侵入・破壊がされにくいレンガ造りに決定しました。また、増築も行うことにします。西は甘粛省、東は朝鮮方面までの大規模な長さになりました。
工事は成化帝から約100年に渡る大規模なものでした。これだけ頑丈に作れば大丈夫・・・・・・のはずでした。大きくなるというのは、それだけ守るのも大変です。異民族は次々とセキュリティの弱い個所を突いて攻撃します。
明中期になると、アルタン=ハン率いるモンゴル軍が侵入して北京を包囲します。この時、明は交渉の末にモンゴル軍に帰ってもらい難を逃れます。
ところが、一難去ってまた一難。明末期にはヌルハチ率いる後金(後の清)が攻撃を仕掛けてきます。ヌルハチは存命中に突破することは出来ませんでしたが、孫の順治帝が明を裏切った呉三桂と連絡をとって簡単に攻略します。結局、万里の長城のセキュリティは完璧ではなかったのでした・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言 観光マナーは守ろう!
以上が万里の長城のセキュリティに関しての解説でした。現在、観光出来る万里の長城は明・清代のものばかりです。秦代の万里の長城は壊れやすくて非常に危険なので、行くことは禁止されています。
ピラミッドに上ってはいけないのと一緒ですね。最近、マナーの良くない観光客もおり、分かっているのに行く人もいるようです。皆様も旅行をする時は無茶をせずに、安全で快適な旅を楽しんでください!
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