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5:公孫胡傷の軍勢は同僚の白起に吸収?
公孫胡傷は、六大将軍でも異質で兜を被らずに冠を被り、軍師のような風貌をしています。どうも当人も武器をもって戦うのは不得意のようで、六大将軍の戦略は胡傷が立てていたと漫画では説明されています。また昌平君の師であると同時に、王翦を高く評価していたというので、この2名は部下と考えても間違いないだろうと思います。
史実の胡傷は、紀元前273年、趙と魏に攻められた韓の救援要請を受けた宰相魏冄の命令で昭襄王が派遣した白起と共に華陽に向かい、短期間で戦場に到達して準備が整わない趙と魏の軍勢を撃破し13万人の将兵を処刑し3名の将軍を捕虜にしました。
魏の将軍の芒卯は敗走し、趙の将軍の賈偃も秦軍に敗れ2万の趙兵が黄河に沈められています。しかし、紀元前269年に胡傷は閼与を攻めて、趙奢の奇策にはまり大敗、以後は歴史に出て来ません。この事から、閼与の敗戦で胡傷は死去したか、あるいは責任を取らされて六大将軍の地位を失ったのでしょう。その軍勢はどこに行ったか不明ですが、王翦が蒙驁の配下にいた事を考えると、胡傷から同僚の白起に軍勢が移動し、白起の兵卒格下げで次には軍勢が王齕に移動し、最後は蒙驁の配下として吸収されたと考える事も出来ます。
6:司馬錯の兵力は司馬靳から蒙驁へ
司馬錯も六大将軍ですが、白塗り眉なしカエルみたいな外見以外には詳細が不明です。史実では、秦の後方の食糧庫になった蜀の有益性を説いて開発を奨励して、経済面で秦の中華統一をアシストしています。主として、蜀で起きた反乱を鎮圧したり、楚を攻めたり、魏を攻めたりして手柄を立てていますが、一度、白起と共同で垣の城を落としています。
その縁があってか、孫の司馬靳が白起の副官になっているようですが、同時に白起が昭襄王と揉めた時にも巻き込まれ、同時に死を賜っています。だとすると司馬錯の軍勢は、孫の司馬靳から王齕に移動し、また王齕から蒙驁へと移動したのかも知れません。司馬靳の孫の司馬昌は始皇帝の時代に鉄を管理する役人だったという事から司馬靳の軍勢が、そのまま孫に移行したとは考えにくいです。
キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言
以上、六大将軍の部下がどこに行ったかを調査してみましたが、リアルな歴史では、軍勢が縁故を通じて将軍から将軍に移動するような事はありませんでした。兵権を握っているのは、飽くまで秦王であり、兵力を与えるのも奪うのも王の権力の範囲内だからです。だからこそ、王翦は六十万もの大軍を率いた時には微塵も野心があると思われないように、褒美の催促をしてまで小者の振りをし秦王政の猜疑心を解く事に務めたのです。
参考文献:史記
参考文献:キングダム公式ガイドブック覇道列紀
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