【麒麟がくる】斎藤四代美濃のマムシの系譜を簡単紹介

2020年1月18日


 

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明智光秀(麒麟がくる)

 

2020年のNHK大河ドラマの主人公である明智光秀(あけちみつひで)、そんな光秀が最初に仕えているのが関東の北条早雲(ほうじょうそううん)と並び称される戦国の梟雄(きょうゆう)、美濃のマムシ斎藤道三(さいとうどうさん)です。従来、一代で油売り商人から成り上がったと言われた道三ですが、最近の研究では国盗りは父子(ふし)二代で成し遂げた事が確実視されています。そんな斎藤四代について簡単に学び、麒麟がくるに備えましょう。

 

※斎藤四代の歴史は諸説あります。こちらの記事は一説とお考え下さい。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武士から僧侶、商人、武士へ転身、初代道三

 

初代道三は、明応三年頃(1494年)山城西岡の浪人松波基宗(まつなみもとむね)の子として生まれました。幼名は峰丸(みねまる)と言ったそうですが貧しかったので12歳頃に妙覚寺(みょうかくじ)に預けられ僧侶となる道を歩み始めます。坊主になった峰丸は名を法蓮房(ほうれんぼう)と改め20歳まで修行の日々を送りますが、当時の厳格な身分制で固定された仏教界で出世の限界を感じ寺を飛び出します。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

名前を松波庄五郎(まつなみしょうごろう)に戻した彼は、故郷の京都、西の岡に戻りますが、そこで油を商う奈良屋の娘に()れ、手練手管を駆使して思いを遂げ娘婿になり、屋号を山崎屋に改めて油屋になりました。ここで坊主から商人に転身した事になります。当時、油商は油座というギルドが組織され、大山崎にある離宮八幡宮の神人に握られていて、その仲間に入っていないと商売が出来ませんでした。奈良屋はその仲間だったのでしょう。商売としては独占商売である油屋は利益を上げ松波庄五郎も富を蓄えます。

土岐頼芸

 

その後、庄五郎は美濃に赴き、妙覚寺に居た頃の友人、日運(にちうん)を介して美濃国守護の土岐頼芸(ときよりなり)、さらにその宿老長井長弘(ながいながひろ)の知遇を得て、長井の家老であった西村氏の後継ぎに入り、西村勘九郎(にしむらかんくろう)と名を改めます。ここから勘九郎はマムシの本領を発揮、さらに長井姓を手に入れて長井長弘と同格に登ると、頼芸に対し長井長弘が謀反を企んでいると讒言(ざんげん)し天文三年(1533年)、長井氏を襲撃、妻子共々殺害して家を乗っ取ります。この事件には、二代目道三が関与している可能性もあり、長井家を相続して長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)を名乗ったのは二代目道三かも知れません。

三国志のモブ 反乱

 

こうして、美濃の権力の中枢に食い込み、守護の地位を土岐頼芸と争っていた土岐頼純(ときよりすみ))を謀略を駆使して追い詰め、本拠地の革手城(かわてじょう)を攻めて美濃から追放。土岐頼芸を美濃国主の地位に押し上げた所で初代道三は人生の幕を下ろします。

 

主君を追放し国主になった二代目斎藤利政

斎藤道三

 

二代目道三、恐らく長井新九郎規秀は、麒麟がくるで本木雅弘(もときまさひろ)が演じている道三です。初代道三の長井新左衛門尉が天文六年(1537年)前後に死去すると家督を継ぎ、美濃守護代の斎藤利良が天文七年に死去すると、その家を乗っ取り斎藤利政(さいとうとしまさ)と名乗ります。

 

悪い顔をする斎藤道三

 

利政は、父に輪をかけた野心家であり、まさに美濃のマムシでした。家督を継いでから四年目の天文十年、己の権力を確かめるように美濃国主、土岐頼芸の弟頼満(よりみつ)を毒殺。さらに翌年には土岐頼芸との抗争に入り、ついに大桑城に頼芸を破って美濃から追放。下克上を達成して美濃国主の地位に就きます。

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

しかし、追放された頼芸は諦めず、尾張の織田信秀(おだのぶひで)の援護を取り付けると、過去に自分が追放した土岐頼純(ときよりずみ)と手を組み、朝倉家と織田家の援助を受けて土岐氏再興を旗印に美濃に進撃し揖斐北方城(いびきたかたじょう)に入城します。戦いは五年に渡って続きますが、戦上手の斎藤利政はこれと互角に戦います。織田信秀は、天文十三年と十六年に美濃に侵攻しますが、道三は二度目に稲葉山に押し寄せた織田信秀の軍勢を籠城戦で疲弊させ、加納口(かのうぐち)の戦いで徹底的に撃破して完全勝利しました。

虎といちゃつく織田信秀

 

※この加納口の戦いは、麒麟がくるの明智光秀の初陣になるかと思うので楽しみです。

 

鉄砲隊を率いる今川義元

 

同じ頃、美濃では土岐頼純が病死、敗戦で大きなダメージを受けた信秀は東の三河、今川氏への守りも難しくなったので、斎藤道三と和睦する事にします。ここで行われたのが道三の娘である帰蝶と信秀の嫡男である織田信長の縁組です。大河ドラマでは光秀が信長を目撃する最初のシーンになるかも知れません。

 

斎藤道三の娘・帰蝶

 

二代目斎藤道三は、こうして天文二十一(1552)年、後ろ盾を失った土岐頼芸を再び尾張に追放し土岐氏の勢力を掃討、完全に美濃を掌握します。ところが道三は息子の義龍を疎んじて、次男、三男を偏愛し義龍に権力を委譲しませんでした。こうして、マムシの下克上は父子の骨肉となり、義龍は弟達を稲葉山城におびき寄せて殺害。

 

ドケチな斎藤道三

 

兵を挙げて父、道三追討に立ち上がります。皮肉にも裏切りを続けた道三に対する反発は強く、義龍には1万五千もの援軍が集まりますが、道三には二千しか集まりませんでした。

 

斎藤義龍に討たれる斎藤道三

 

弘治二年(1556年)道三は長良川の戦いで義龍の軍勢に敗れて戦死、裏切りの人生の幕を下ろします。

 

麒麟がくる

 

短命に終わった三代目のマムシ斎藤義龍

斎藤義龍(麒麟がくる)

 

父の道三を討った三代目のマムシ、斎藤義龍は父である道三に「ボケ」と陰口を叩かれていたそうですが、とてもボケとは思えない電撃戦を展開し、長良川に道三を追い詰めるのと同時に、道三に味方しそうな勢力にも別動隊を派遣していました。これにより、明智氏のような道三に味方した勢力も滅ぼされたそうです。麒麟がくるの明智光秀は斎藤義龍と学友という設定のようですから、なかなか修羅な展開になるかも知れません。

 

織田信長

 

義龍は、道三救援にやってきた信長を小競り合いで撃退すると、道三の独裁で反感が強まっていた美濃国内で旧来の宿老制を採用した合議制を取る事で国人衆の不満をやわらげ、同時に貫高制に基づく安堵状を発給して、荘園の既得権を削いで支配を国主に一元化するなど、父道三が十分になし得なかった戦国大名としての斎藤氏の基礎を確立します。

 

足利義輝

 

同時に、父道三の悪名を払拭する意図か、足利義輝(あしかがよしてる)に接近して名門一色氏(いっしきし)を称する事を許され一色義龍と改姓、また、永禄元年(1558年)には、治部大輔(じぶだいゆう)に任官、翌年には相伴衆(しょうばんしゅう)になり管領に次ぐ地位を得て戦国大名としての大義名分を得ました。義龍は、さらに南近江の六角氏と結ぶなど外交でも地歩を築きますが、寿命には恵まれず永禄四年(1561年)33歳で急死しました。

 

 

ちなみに斎藤氏の異名であるマムシは、母の腹を食い破って出てくると伝えられた蛇であり、親殺しの意味もあります。実はマムシは卵ではなく胎生で、ある程度大きくなってから母マムシの肛門から出てくる冷血動物にしては情のある蛇なのです。昔の人は、それを子マムシが母の腹を食い破ると誤解したのでしょうが、義龍はまさに父殺しをして権力を掴んだので、マムシの名前に相応しいのかも知れません。

 

うつけに国を奪われた四代目龍興

斎藤龍興

 

斎藤龍興は、天文十七年(1548年)斎藤義龍の子として生まれ永禄四年、義龍の急死を受けて14歳で家督を継ぎました。しかし、父と祖父の内紛を発端とする骨肉の争いによる家臣の流出や、今川義元を破って東の徳川家康(とくがわいえやす)と同盟を結び東の憂いが消えた織田信長の度重なる侵攻、さらに評判の悪い斎藤飛騨守(さいとうひだのかみ)を重用した事で、竹中重治(たけなかしげはる)(半兵衛)や西美濃三人衆安藤守就(あんどうもりなり)からも距離を置かれます。

 

 

さらに、その後の戦いで、斎藤六宿老の日比野清実(ひびのきよざね)長井衛安(ながいえいあん)を失い、永禄五年には有力家臣、郡上八幡(ぐじょうはちまん)城主の遠藤盛数(えんどうもりかず)が病死。龍興は、信長の侵攻に対処すべく、父義龍の時代には敵対していた北近江の浅井長政(あさいながまさ)と結ぼうとしますが、信長が先に浅井と結び逆に浅井が美濃に侵攻してくるなど外交面で失敗、この時は六角義賢が浅井領に侵攻して長政が撤退して命拾いします。

 

泣いている織田信長

 

永禄六年には、織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中半兵衛の活躍で織田軍を撃破しますが、龍興は半兵衛に十分に報いなかったので、翌年、怒った半兵衛と安藤守就に稲葉山城を攻められ斎藤飛騨守を殺害された上に城は落城しました。龍興は鵜飼山城(うがいやまじょう)、さらに祐向山城(いこやまじょう)に逃走。龍興は、半兵衛や安藤守就と和睦し稲葉山城に返り咲きますが、その頃には斎藤氏の凋落は隠しきれないレベルになっていました。

 

安土城 織田信長が作らせた城

 

永禄五年頃から織田信長が稲葉山城から十五キロしか離れていない場所に小牧山城を築いて城下町を整備すると、東美濃で有力な豪族が次々と織田家に寝返り内乱が頻発。永禄十年(1567年)には、西美濃三人衆、稲葉一鉄や氏家直元、安藤守就が信長に呼応して寝返り、稲葉山城が再び陥落。龍興は木曽川を船で下り、北伊勢の長島に退却します。ここに、美濃国主としての斎藤氏四代の歴史は終結しました。その後の龍興は大叔父の長井道利と共に、本願寺勢力と結んで美濃を奪い返そうと奮戦しますが、願いは叶わず天正元年(1573年)刀根坂の戦いで戦死しました。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

以上が、初代長井新左衛門尉から始まる半世紀の斎藤氏四代の国盗りの歴史になります。なんというか、裏切りでのし上がった斎藤氏が、父子の骨肉の争いで疲弊し、やがて重臣の裏切りを招いて稲葉山城を追われてしまうのは、因果応報の四文字を思わずにはいられません。

 

参考文献:歴史文化遺産 戦国大名 山川出版

 

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麒麟がきた

 

 

 

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