前回は科挙が運営されるまでを解説しましたが、今回は実際に運営されていた科挙の問題について触れていきたいと思います。
現在の日本の公務員試験は国語(現代文・古文・漢文)、数学、理科(化学・物理・生物・地学)、社会(日本史、世界史、公民、地理)、英語が出題されます。
当然、昔の試験に現代の五教科が使用されるはずがありません。どのようなものが使用されていたのでしょうか。今回は科挙で出された問題について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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具体例1 伏字当てクイズ 帖経
帖経というのは、クイズ番組でよくやる「□の中に入る漢字を当てよ」という伏字当てクイズです。唐(618年~907年)の科挙は、この試験が多かったようです。『通典』という書物には、この試験問題について触れています。それによると、3文字ほど隠すのが通例だったようです。10問のうち、5・6問正解すれば合格。ただし、合格の基準は一定していませんでした。
こういうクイズ形式の問題は、学問が珍しかった時代では面白かったでしょうが受験者が多くなる後世では意義が失われるもの・・・・・・
出題者もわざとマイナーな書物から問題を出しますが、受験生も考えます。受験のプロが作った帖経対策の参考書が書店に出回ります。いつの時代も教本で商売するのはあったのです。上記の参考書は「帖括」と言って朝廷でも問題視されていました。
具体例2 文章当てクイズ 墨義
帖経が文字当てクイズだったのに対して、墨義は文章当てクイズです。お題として出された文章の続きを書くのです。確かにこれは帖経より圧倒的に難しい・・・・・・しかもこれは問題が残っていました。『文献通考』という書物によると、北宋(960年~1127年)の宰相である呂夷簡が解いた問題が記されています。
「其の君に礼有る者を見るは、孝子の父母を養うが如きなり、と謂う。下文を以て答えよ」
『春秋左氏伝』からの出題なんですけど、正解は「下文に曰く、其の君に礼無き者を見るは、鷹鸇の鳥雀を逐うが如し、と謹みて対う」
帖経よりも難しいのは事実なのですが書物の暗記であることには何も変わりません。『文献通考』の著者の馬端臨は「子供が本をかかげて朗読しているみたいだ」と馬鹿にしています。帖経と墨義は北宋の熙寧2年(1069年)に宰相になった王安石の改革で廃止となりました。
具体例3 詩文
唐の高宗の永隆2年(681年)に劉思立という人物が提案して、科挙の優劣を決める科目とされます。唐代では独創的な内容を作った人が有利でしたが、北宋になると詩文のブームも廃れてしまい評論が試験の優劣を決める科目となりました。北宋になると詩文の試験はテキスト通りの文章だけ書ければ合格だったようです。
具体例4 評論
これが北宋以降の科挙で優劣を決める科目になります。ちなみに、これは科挙のオリジナル試験ではなく、前漢(前202年~後8年)から存在していました。皇帝が有能な人材発掘のために試験として使用していたものです。この問題の特徴は相当に具体的な問題提起をしてそれに対する意見を求めることになっている点です。
答案用紙が優秀な場合は、その文体がブームになる話があります。北宋の嘉祐2年(1057年)に科挙の試験官をしていた梅堯臣は受験生の蘇軾の答案の出来が良かったので、科挙の総責任者である欧陽脩に見せました。当時の文章は遠回しな表現が多くて読みづらいのが当たり前・・・・・・欧陽脩はそんなのにうんざりしていました。
ところが田舎からやって来た蘇軾の答案は、誰にでも読めるように出来ています。当然、蘇軾は合格!それどころか、蘇軾の文体は流行の最先端となったのです。蘇軾は研究者の間では政治家として通っていますが、普通は「文人・書家」というイメージが強いです。
宋代史ライター 晃の独り言
科挙の試験は面倒くさいものが多いことが分かりました。これらの試験を突破して官僚になると3代は遊んで暮らせると言われていました。もちろんそれは幻想であり、実際の給金は多くない上に、ほとんどが一族への分配や使用人たちの給料で消えていたようです。しかし、それでも中国人は科挙に合格して官僚になりたかったのです。不思議なものですね・・・・・・
※参考文献
・村上哲見『科挙の話 試験制度と文人官僚』(初出1980年 後に講談社学術文庫 2000年)
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