秦檜は佞臣の代表格?宋の国の寿命を20年延ばした南宋の丞相・秦檜

2022年4月14日


 

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秦檜(しんかい)

 

中国歴史上において、佞臣(ねいしん)と呼ばれる者たちはかなりいます。その中でも、佞臣の代表格と言えば……秦檜(しんかい)の名が挙げられるのではないでしょうか。筆者は彼を中学時代に社会の時間で習い、少しばかり衝撃を受けたのを覚えています。

 

今回はそんな秦檜について、そして秦檜が佞臣と言われるようになった理由の一つでもある岳飛(がくひ)について、お話したいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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岳飛という人物

岳飛

 

まずはちょっと岳飛についてお話しておきましょう。岳飛は農民出身でありながら文武両道を地で行く優秀な人物であり、また当時としては珍しく、戦いの中で部下たちに略奪行為を許さなかったとされる高潔な人柄を持つ人物でもあります。

 

背中に尽忠報国の入れ墨がある岳飛

 

そんな彼が生まれたのは(そう)の時代。異民族である「金」によって中国の北半分は制圧され、皇族たちが連行されて宋(北宋)は一度滅びました。そこで唯一捕まっていなかった皇族の一人、高宗(こうそう)が宋を立て(南宋)、岳飛はそこで華々しい活躍をしていくことになります。

 

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岳飛の活躍

岳飛(南宋の軍人)

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)劉備(りゅうび)たちが義勇軍に参加してから名を挙げていくように、岳飛も義勇軍に参加してから名を挙げました。この頃はまだ金を押さえ込めていたのですが、名将であり、同時に老将でもあった宗沢が亡くなると金軍は南下してきます。

 

この際に高宗は逃亡するも、岳飛は私兵たちを率いて戦い、しかも六戦六勝と完封勝利。また戦いに勝利してもそこかしこで略奪行為をすることのないように取り締まったとも言われ、岳飛の人気はうなぎのぼりとなりました。後に高宗は岳飛に「精忠岳飛」と書いた旗を与えて、その功績を称えたのです。

 

しかしこの時、後の岳飛に悲劇をもたらす人物が動いていました。

 

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秦檜という人物

 

では秦檜について、後の部分も含めてざっくりとお話しましょう。秦檜もまた金に連れて行かれていたのですが、岳飛が活躍すると同時期に妻と共に金を逃れ、高宗の元に表れます。彼はそのまま宰相に任命されると、金との講和を行おうとしました。

 

徹底抗戦を主張し宮廷で孤立する岳飛

 

これは岳飛が活躍したことで、金の主戦派が失脚、和平派が動きやすくなり、和睦を行う道が開けたためです。しかしこの講和の条件には「河南地方一帯を金に譲渡する」という、金にとってかなり有利な条件で講和が結ばれようとしていました。

 

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屈辱の講和

金の兵士を泣かす強い岳飛

 

その一方で岳飛は韓世忠(かんせいちゅう)と共に金相手に戦い、連戦連勝をマークしていきます。しかし稀代の英雄も兵糧不足には勝てず、開封に至るかと言うところで金の主戦派トップが亡くなり、講和が進められました。この時に「講和するには軍閥は邪魔」と言わんばかりに軍は解体。

 

韓世忠は隠居して悠々自適に暮らすも、岳飛はこれに納得せず。それどころか岳飛は軍の解体にも同意せず、果てに高宗が一日に十二回も召還の金字牌を送ったため、これに岳飛は無念のまま同意せざるを得なくなったのです。

 

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岳飛の悲劇

秦檜により冤罪で処刑される岳飛

 

そんなある日、秦檜の妻が夫の前で暖炉の灰に「虎を捕らえるは易く、放つは難し」と書きました。これが何を意味するか悟った秦檜、岳飛とその家族、軍の幹部を謀反人として投獄。

 

岳飛は自白を強要されて辛い拷問を受けるも、「天は全て知っている」と記して自白を拒否し続け、最後は秦檜の指示によって絞殺され、英雄の生涯は幕を閉じることとなります。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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