荘園の誕生で、食糧増産ブームが起き鉄の需要が民間でも高まると、それまで大和朝廷に隷属していた鉄の職工たちは荘園に逃走。
朝廷はやむなく半奴隷の身分から職工たちを解放します。こうしてフリーランスになった職工は、職人となり全国に散らばり良質な砂鉄を探して鉄を製造していきました。
一方で飛鳥から奈良時代に渡来してきた渡来人職工は鋳造技術のような当時の日本では珍しい高い水準の製鉄技術を駆使して、仏像や仏具、奈良や鎌倉の大仏のような巨大な鋳造仏を残していきます。
その後は、元寇や南北朝のような騒乱で、鉄の需要が高まると、幕府や朝廷は職人を保護し鉄の生産力の技術水準の向上にテコ入れし、輸入するばかりだった日本の鉄産業は、室町期には海外に日本刀を輸出するまでになっていくのです。
やがて、南蛮から種子島に鉄砲が伝来、日本人はただちにこれを国産化すべく知恵を絞り技術を磨いていくのでした。
特権を得た鋳物師
鎌倉時代から室町時代にかけて、大きく技術水準が発展したのは鋳物でした。すでに奈良時代から、仏教国家になった日本では仏像、仏具、梵鐘と鋳物の需要が高まり、貴重な鋳物を生み出す鋳物師の地位が高まっていたのです。例えば、文武天皇の大宝三年(703年)には、朝廷お抱えの鋳物師に対し、国家の宝を造る尊い職業であるとして藤原姓を名乗る事が許されています。
こうして、次第に高い地位を得るようになった鋳物師は、座という職業ギルドを形成して、技術を独占し発展させると同時に「鋳物師由来書」というフィクションを生み出します。
これは、鋳物師がいかに由緒正しく、神代の時から国に貢献してきた一族であるかを称揚する内容で、ある時、宮廷に嫌な風が吹き近衛天皇が病気になった折、天下の僧侶を集めて加持・祈祷をしても効果がなかったが、天命という鋳物師に鋳物燈篭を造らせると、嫌な風が吹かなくなり帝の病気も治った。近衛天皇はいたく天命に感謝し藤原姓を与えた。という霊験話を含んでいました。
このようなフィクションが流布する程、鋳物師は、原料調達、居住の自由、営業の自由を認められ国家的な優遇を得ていたのです。かつて職工が半奴隷の形で国家に使役されていた昔を思えば、雲泥の地位の向上でした。
戦国大名も夢中!鋳物の芸術茶釜
このような鋳物師が生み出した芸術品に茶釜があります。鎌倉・室町時代にかけて茶釜は飯を炊き、茶を沸かし、汁を煮るなど万能の調理器具であり、堺の僧、一路庵善海は一つの茶釜で万事の用が足りると豪語しました。もののけ姫でジゴ坊が取っ手とボツボツがついた釜で粥を煮るシーンがありましたよね?あれが茶釜です。
この茶釜、室町時代に流行してくる茶の湯において、湯を沸かす主役の地位を果たすようになり、商いで成功した商人や、権勢のある貴族や武士が数寄と呼ばれるマニア癖を発揮し、次々と茶釜の名物が誕生するようになります。
やがて、そんな数寄者の茶人が羨望する茶釜は、天明釜、芦屋釜、京都釜の3種が頂点となり、そこから多くの支流が出現します。勘の良い人はお分かりでしょうが、戦国のボンバーマンこと、松永弾正が所有し信長がとても欲しがった名物、古天明平蜘蛛は、天明釜という茶釜の一つなのです。
織田信長は専門の釜師として、京都三条の釜座に所属する西村道仁を抱え、紹鴎好みの釜を鋳造させ天下一の称号を与えていますし、後継者になった豊臣秀吉も辻与次郎、弥四郎、藤左衛門のような釜師を抱えていました。彼ら鋳物師は戦国大名も夢中にさせる鋳物を産み出したファンタジスタと言えるでしょう。
初のメイドインジャパン 日本刀
日本では奈良時代に入ると、蝦夷征伐に向かう防人の装備品として刀剣の需要が拡大し、五畿七道に、それぞれ刀鍛冶が住み着いて、鍛冶の一派を為すようになります。平安時代に入り、大和朝廷の力が衰えると同時に荘園を実力で守る必要から自警団としての武士が誕生、院政期に入ると北面の武士としてアウトソーシング雇用され、刀剣や鎧の需要が急増、また、大寺院も自己の権益の保持の為に僧兵を蓄えて、強訴に及ぶなどし、白河法皇を嘆かせる専横を奮いました。
その中で刀剣の技術は磨かれ、直刀だった刀は、そりとしのぎを持つ現在の日本刀へと変化していきました。また、平安から鎌倉に作刀が繁栄した理由には元祖刀剣男子であった後鳥羽法皇の存在も大きいものがありました。
後鳥羽上皇は院内に鍛冶場を設けて、全国の名のある刀匠を呼び寄せ、月番で刀を打たせるばかりでなく、自身でも鍛冶をするほどの刀剣マニアでした。上皇のお墨付きを得た刀鍛冶は、それまでの差別されていた立場から、社会的な地位の向上を果たすと共に、より作刀に励むようになり、日本刀は世界でも有数の鋭利な刀剣へ進化します。
室町時代が始まり南北朝の騒乱が一段落すると、日本刀は史上初の輸出品、メイドインジャパンとなり、十万振以上の日本刀が明王朝や李氏朝鮮、そして琉球王国を介して、東南アジアにまで広く輸出されました。
刀鍛冶が生産した鉄砲
日本が日本刀を海外に輸出していた真っ最中の戦国時代中期の天文十二年(1543年)九州は種子島に明の大船が到着、その船に乗り込んでいた牟良叔舎、喜利志多佗孟多という外国人が所持していたのが、種子島銃、すなわち鉄砲でした。
種子島の領主、種子島時堯は賢明な人物で、二人の異人から鉄砲を二挺購入し、一挺を刀鍛冶の八板金兵衛と篠河小四郎に託して、同じ銃を造れと命じたのです。金兵衛と小四郎は、説明書一つない鉄砲の製造に悪戦苦闘しますが、当時の日本に存在しなかったバネや螺子に至るまでを苦心しながら開発し、一年で模造品を完成させたと言われています。
この時に鉄砲製造に役に立ったのが日本刀を製造する技術でした。鉄砲は、厚みのある熱した鉄を叩いて芯に巻き付けて製造しますが、熱した鉄を円筒形に生成するのは大変な技術が必要でした。しかし、日本刀を製造する上で、刀身を反らせたり、鉄を二重に巻きつけて強度を増すような技術を習得していた刀鍛冶は、火薬の爆発に耐えうる鉄砲を産み出したのです。
種子島で誕生した日本製鉄砲は、そこから和歌山県の根来寺、近江の国友村、大阪の堺に伝播し戦国時代という時代風潮もあり、新兵器として量産を開始します。しかし、どんな大名でも鉄砲を欲しがったか?と言えばそうでもなく、非常に高価な鉄砲を数を揃える事が出来、付随する、鉛、硫黄、硝石を安定して調達できる大名だけが、大量の鉄砲の集中運用という戦国時代を変える戦術の革新を成し遂げる事になりました。
そう!楽市楽座を置いて商業の自由化を図り、各地の主要な港を抑えて物流を支配下におき、各地の街道を拡げ、江戸時代の五街道に先駆け各国の交通網を整備した尾張の戦国大名、織田信長こそが、鉄砲の性能を最も引き出し長篠の戦いで勝利したのは自然のなりゆきだったのです。
鉄の日本史ライターkawausoの独り言
鎌倉から室町時代、鉄の加工手段である鍛造と鋳造はそれぞれに大きな発展を迎えます。鋳造は仏教と結びつき、仏像、仏具、梵鐘等の鋳造を通じて、技術を高め茶の湯道具である茶釜を技術品の位置にまで高め、それは戦国大名も魅了しました。もう一方の鍛造は、奈良時代から蝦夷討伐や、平安時代以後の武士や僧兵の誕生により、刀剣需要が拡大する事で、五畿七道に刀鍛冶の様々な流派が誕生します。後鳥羽院の肝煎りもあり、平安末には日本刀が完成、戦乱が終息する室町時代には、日本初の輸出品として広く海外に輸出されます。
そして、その鍛造技術は、鉄砲が伝来するや刀鍛冶の技術を応用する事で、たちまちのうちにこれをコピー改良し、大量の鉄砲と鉛、硫黄、硝石を集める事が出来た戦国大名、織田信長による天下統一を大きく後押ししたのです。
参考文献:鉄から読む日本の歴史 講談社学術文庫
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