本能寺の変の後も信長は生きていた!「信長の首級の行方」の大胆仮説

2020年3月14日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本当に弥助が信長の「首級」を持ち出したのか?

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

弥助が『本能寺の変』に際して、本能寺に信長と共に逗留し、その後二条御所(にじょうごしょ)で信忠と共に戦い捕縛されたことは史実として記録されています。しかし、だとすると、弥助が「信長の首級」を持ち出したという仮説には無理がないでしょうか?

 

モザンピーク出身の弥助(奴隷時代)

 

もし、弥助が信長の「首級」を持ち出したのなら、まず第一にその「首級」が明智勢の手に渡らないよう、どこかに隠すことを最優先とするはずです。しかし弥助は二条御所にいた織田信忠の元に赴いて、共に戦い、そして捕まっています。この時、弥助が信長の「首級」を持っていたとするなら、それは明智勢によって発見されていたのではないでしょうか?

 

織田信長の首を持って逃げ出す弥助

 

「首級」を信頼に足る人物に預けにいったと考えると、彼が二条御所に明智勢謀反の知らせを届けた、という話に矛盾が生じます。弥助は本当に信長の「首級」を本能寺から持ち出し得たのでしょうか?

 

いや、持ち出せるはずがありません。なぜなら。

 

天下布武を唱える織田信長

 

織田信長は生きていたからです!!!!

 

本能寺の変を生き延びた信長はアフリカに渡った!?

海上での戦い(地図と本)

 

日本の文献に残された、日本人のアフリカへの渡航歴は最も古いものとして、高島久也(たかしま ひさや)という人物の書いた「応西紀行(おうせいきこう)」という文献に見られます、文久2年(1862年)、幕府がヨーロッパに派遣した使節団がその途中、エジプトに立ち寄ったことが記録されており、使節団がスエズからカイロまで蒸気機関車に乗って行ったことなどが書かれています。

 

三国時代の船 走舸

 

しかし、それより古い時代、アフリカに渡航した日本人がいたという記録が、ジンバブエに保存されるポルトガルの文書に見ることができます。その記録によれば1593年、ジンバブエ近くの海で座礁した帆船に一人の日本人が乗っていました。その男は奴隷だったといいます。この時代、奴隷貿易は世界的にみて珍しいものではありませんでした。

三国時代の船(先登)

あの弥助も元々は奴隷として、イエズス会の司祭に買われた人物でした。日本人が奴隷として買われ南蛮船(なんばんせん
)
に乗せられてヨーロッパに向かったという事例は、実はそこまで珍しくはなかったようです。

 

スキッパーキ(はてな)

 

しかし、であるならば、ここでまた一つの疑問が浮かびます。果たして、その時代無数に存在したであろう奴隷の記録をわざわざ文書として残すでしょうか?その奴隷は女性を担いで砂漠を縦断させられるなど、体力や行動力の面で他の奴隷より秀でていたという記録も残されています。

 

燃える本能寺

 

この謎を読み解く2つの鍵が存在します。ひとつは、この日本人が乗った帆船が座礁した時期です。1593年……これは『本能寺の変』の11年後にあたります。そしてもう一つが、この文書が保管されている国です。ジンバブエ……それはかの弥助の出身地、モザンビークの隣国なのです。

 

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

もしかするとその「日本人」は、モザンビークを目指していたのではないでしょうか?あるいは、その日本人こそが、織田信長であったと考えられないでしょうか!?

 

本能寺の変の真実!!

ラクダに乗って砂漠を移動する織田信長

 

『本能寺の変』の際、織田信長は弥助の手引で本能寺を脱出、いずこかへとその身を隠しました。信長の逃走に手を貸した弥助は明智勢に一時囚われの身となりますが、後に釈放され、信長と合流します。それから数年の間、信長はその身を隠していましたが、やがて日本を脱出する機会を掴み、弥助と共に南蛮船に潜り込んで、彼の故郷であったモザンビークを目指した……。そんな可能性は考えられないでしょうか?

 

鼓膜が破れる程声がデカい織田信長

 

初めてアフリカに到達した日本人は、織田信長であったのです!!

 

HMR隊長の独り言。

三国志ライター 石川克世

 

『本能寺の変』を生き延びた織田信長が、なぜ元の地位に復帰するのではなく、日本脱出を志したのか。それはわかりません。あるいは、弥助から故郷の話を聞いて、広大なアフリカの大地に憧れを抱いていたのかもしれません。日本よりも遥かに広大なアフリカを征服する、そんな夢を抱いた可能性は、決して否定できないものであると思います。

 

HMR隊長 石川克世

 

はじ三ミステリー調査班(HMR)は、これからも「信長生存説」の可能性を追求します!!

(あれ、このパターン、前にもあったような……)

 

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石川克世

三国志にハマったのは、高校時代に吉川英治の小説を読んだことがきっかけでした。最初のうちは蜀(特に関羽雲長)のファンでしたが、次第に曹操孟徳に入れ込むように。 三国志ばかりではなく、春秋戦国時代に興味を持って海音寺潮五郎の小説『孫子』を読んだり、 兵法書(『孫子』や『六韜』)や諸子百家(老荘の思想)などにも無節操に手を出しました。 好きな歴史人物: 曹操孟徳 織田信長 何か一言: 温故知新。 過去を知ることは、個人や国家の別なく、 現在を知り、そして未来を知ることであると思います。

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