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本当に弥助が信長の「首級」を持ち出したのか?
弥助が『本能寺の変』に際して、本能寺に信長と共に逗留し、その後二条御所で信忠と共に戦い捕縛されたことは史実として記録されています。しかし、だとすると、弥助が「信長の首級」を持ち出したという仮説には無理がないでしょうか?
もし、弥助が信長の「首級」を持ち出したのなら、まず第一にその「首級」が明智勢の手に渡らないよう、どこかに隠すことを最優先とするはずです。しかし弥助は二条御所にいた織田信忠の元に赴いて、共に戦い、そして捕まっています。この時、弥助が信長の「首級」を持っていたとするなら、それは明智勢によって発見されていたのではないでしょうか?
「首級」を信頼に足る人物に預けにいったと考えると、彼が二条御所に明智勢謀反の知らせを届けた、という話に矛盾が生じます。弥助は本当に信長の「首級」を本能寺から持ち出し得たのでしょうか?
いや、持ち出せるはずがありません。なぜなら。
織田信長は生きていたからです!!!!
本能寺の変を生き延びた信長はアフリカに渡った!?
日本の文献に残された、日本人のアフリカへの渡航歴は最も古いものとして、高島久也という人物の書いた「応西紀行」という文献に見られます、文久2年(1862年)、幕府がヨーロッパに派遣した使節団がその途中、エジプトに立ち寄ったことが記録されており、使節団がスエズからカイロまで蒸気機関車に乗って行ったことなどが書かれています。
しかし、それより古い時代、アフリカに渡航した日本人がいたという記録が、ジンバブエに保存されるポルトガルの文書に見ることができます。その記録によれば1593年、ジンバブエ近くの海で座礁した帆船に一人の日本人が乗っていました。その男は奴隷だったといいます。この時代、奴隷貿易は世界的にみて珍しいものではありませんでした。
あの弥助も元々は奴隷として、イエズス会の司祭に買われた人物でした。日本人が奴隷として買われ南蛮船に乗せられてヨーロッパに向かったという事例は、実はそこまで珍しくはなかったようです。
しかし、であるならば、ここでまた一つの疑問が浮かびます。果たして、その時代無数に存在したであろう奴隷の記録をわざわざ文書として残すでしょうか?その奴隷は女性を担いで砂漠を縦断させられるなど、体力や行動力の面で他の奴隷より秀でていたという記録も残されています。
この謎を読み解く2つの鍵が存在します。ひとつは、この日本人が乗った帆船が座礁した時期です。1593年……これは『本能寺の変』の11年後にあたります。そしてもう一つが、この文書が保管されている国です。ジンバブエ……それはかの弥助の出身地、モザンビークの隣国なのです。
もしかするとその「日本人」は、モザンビークを目指していたのではないでしょうか?あるいは、その日本人こそが、織田信長であったと考えられないでしょうか!?
本能寺の変の真実!!
『本能寺の変』の際、織田信長は弥助の手引で本能寺を脱出、いずこかへとその身を隠しました。信長の逃走に手を貸した弥助は明智勢に一時囚われの身となりますが、後に釈放され、信長と合流します。それから数年の間、信長はその身を隠していましたが、やがて日本を脱出する機会を掴み、弥助と共に南蛮船に潜り込んで、彼の故郷であったモザンビークを目指した……。そんな可能性は考えられないでしょうか?
初めてアフリカに到達した日本人は、織田信長であったのです!!
HMR隊長の独り言。
『本能寺の変』を生き延びた織田信長が、なぜ元の地位に復帰するのではなく、日本脱出を志したのか。それはわかりません。あるいは、弥助から故郷の話を聞いて、広大なアフリカの大地に憧れを抱いていたのかもしれません。日本よりも遥かに広大なアフリカを征服する、そんな夢を抱いた可能性は、決して否定できないものであると思います。
はじ三ミステリー調査班(HMR)は、これからも「信長生存説」の可能性を追求します!!
(あれ、このパターン、前にもあったような……)
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