中華文明は、黄河(こうが)の周辺で誕生しました。
その意味において、黄河は中華文明のユリカゴと言えるでしょう。
しかし、同時に黄河は、何度も氾濫を繰り返す暴れ河であり、
常に居心地の良いユリカゴであり続ける事はありませんでした。
今回は、時に政治体制をも変えた、暴れ河、黄河について書きます。
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この記事の目次
黄河は、世界有数の土砂を含む河
(写真出典元:wikipedia)
黄河は、中国の北部を流れ、渤海(ぼっかい)に注いでいる大河です。
全長は5464キロにもなり、世界第6位の長さを誇ります。
しかし、黄河の特徴は実は、長さではありません。
黄河は上流で細かい砂を大量に含む黄河高原を通過します。
この時に、流れの中に大量のシルトと呼ばれる黄砂を含むのです。
黄河に含まれる土砂は、大量で年間で16億トンに上ります。
渤海の内陸部は、この黄河から吐き出される土砂で
自然に埋めたてられたものだったりするのです。
それは、俗に「水一石に泥六斗」と呼ばれる程であり、
一石は、100リットルで六斗は60リットルですから、
なんと、水の半分以上は土砂という事になります。
実際には、そこまで土砂の比率が高いわけではありませんが、
それでも、世界の河川では断トツに土砂を含んでおり、
それが黄河の水を黄色く濁らせているのです。
黄河を制するものは天下を制した
このように土砂を大量に含む黄河は、大変な暴れ河になります。
上流域から流れてきた土砂が、中流域で溜まり、次第に川底が、
浅くなっていくのです。
そうなると、長雨によって水流が増えると、河は簡単に氾濫を起してしまいます。
華北地方は、平坦な土地なので、黄河の氾濫は大惨事になります。
しかも、吐き出される水には大量の土砂が含まれるのです。
建造物は、土砂の力で押し流され、都市は黄砂に埋まります。
黄河の氾濫で消滅した都市が幾つも出ました。
そればかりではなく、黄河は、氾濫により簡単に流れを変えます。
例えば、平坦な道路で、ホースから水を流すと、水の強さ次第で、
簡単に流れが変わるのを理解できると思います。
土砂の堆積で底が浅くなった黄河でも、これと同じ事が起きたのです。
それまで黄河に無関係な都市が、黄河の流れの変更により消滅しました。
このような事から、中華文明は、黄河を治める治水技術を発展させる事になります。
また、黄河の治水は大工事なので、多くの人間を長期間、継続的に
厳しく監督するリーダーを必要とする事になります。
こうして、古代中国では、聖人と呼ばれた禹(う)のような人物が
出現し何十年という苦労の果てに、堤防を築き黄河を治めました。
土木技術者だった、禹は、こうして万民に崇められ王朝を建国します。
これが伝説上の夏(か)王朝の誕生なのです。
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
春秋戦国時代、核兵器のような存在だった黄河
時代が下り、春秋戦国時代に入ると、黄河に面している国は、
堤防を築いて、氾濫を防衛するようになります。
しかし、ある国が意図的に黄河をせき止めて堤防を決壊させると
下流に存在する国が消滅するので、各国は同盟し、
「黄河を戦争には利用しない」とする誓いを結びます。
この誓いは強力で、裏切りが当たり前だった
春秋戦国の500年間、遂に破られなかったのです。
まるで現代の核兵器のような存在が黄河でした。
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紀元前132年、黄河、濮陽で大決壊!
紀元前132年、黄河は濮陽(ぼくよう)で決壊します。
これにより、当時の経済の中心だった、淮北平野が
土砂で覆われる事になり甚大な被害をもたらしました。
決壊した堤防は、紀元前109年に塞がれますが、
河筋が変わった黄河は、その後、頻繁に氾濫を起すようになります。
西暦11年、黄河さらに決壊、黄河下流が大惨事に・・
氾濫を繰り返す黄河を鎮める為に、紀元前7年に
賈譲(かじょう)という人物が、治水プランを出しますが、
王莽により簒奪寸前の前漢王朝に、そんな大土木工事を
行う力はありませんでした。
西暦11年、王莽(おうもう)による簒奪が起きてから3年後、
再び黄河は決壊、黄河の下流域に甚大な被害を与えます。
混乱している時代に起きた決壊ですから、
無策な王莽に民衆の不満は高まった事でしょう。
結局、王莽は黄河の治水を行えないまま、政権は23年に倒れます。
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後漢の王景、黄河を1000年治める
西暦69年、ようやく国力の落ち着いた後漢王朝は、
暴れ河になった黄河の大治水工事に着工します。
その大任を受けたのは、王景(おうけい)という人物でした。
彼は優れた土木技術者でした。
これまでの治水工事が、結果として、土砂の堆積を招き、
長雨による決壊を招いた事を理解していた王景は、
画期的な方法を2点採用します。
①当時華北平野で最も低い地点で、かつ渤海まで最短距離で、
到達する河川に黄河を合流させる。
こうする事で、河のスピードがあがり土砂を堆積させず、
渤海まで持っていく事が出来る。
②黄河に支流を造る事で、黄河の勢いを分水させる。
これにより長雨で黄河が急に増水する事を防ぐ事が出来る。
工事は10万人という人夫を動員した大工事で1年で終了します。
王景の治水工事は抜群の効果を挙げ、以後、黄河は800年以上
氾濫を起す事がなく、流れの変更に関しては1034年まで、
1000年近く起きませんでした。
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黄河の氾濫が起きなくなった、もう一つの理由
王景の治水工事が成功したのは、もちろん、王景の治水プランが
優れていたからですが、実は、もうひとつ理由があります。
黄河の中流域までには、漢民族の勢いが及ばず、
その土地は遊牧民の生活する土地になります。
その為に広大な地域は牧草地に変わり、
土砂の流出が少なくなり、黄河に含まれる
泥の量も小さくなったのです。
その証拠に唐代以後、漢族が再び黄河中流域に進出して、
農耕を開始すると、黄河には再び、大量の土砂が混ざり、
黄河は再び氾濫を起すようになります。
黄河の氾濫と水滸伝(すいこでん)の意外な関係
西暦944年、五代十国時代の中国で、再び黄河は氾濫を起します。
この時の洪水は、元々、海抜0メートル以下だった山東省西部に、
沢山の水たまりや沼を産み出します。
そこにあった梁山という山の周辺も、
黄河の氾濫で水が流れて湖になっていきました。
そうして、この地は梁山泊(りょうざんぱく)と
呼ばれるようになります。
このような湖は、草が生い茂る天然の隠れ家で
夜盗や山賊が隠れるには最適でした。
そう、三国志から900年後を舞台にする、水滸伝は
黄河の氾濫がなければ生まれない話だったのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
黄河こそは、中華文明の中央集権制と絶対権力を産み出した源泉です。
巨大な暴れ河だった黄河は、生半可な工事では抑えられず、
強大な権力を握る絶対者のリーダーを必要としたのです。
王景の考えた、分水や高低差を利用した河の流れの調整は、
今日でも、水量の多い河川の治水に使われる方法だったりします。
後漢時代の治水技術のレベルの高さがしのばれますね。
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