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【麒麟がくる】斎藤道三の子供は何名いるの?


 

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斎藤義龍に討たれる斎藤道三

 

NHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくる第15話「我が父に(あら)ず」では、家督を継いだ斎藤高政(さいとうたかまさ)異母弟(いぼてい)である斎藤喜平次(さいとうきへいじ)孫四郎(まごしろう)稲葉山(いなばやま)で殺害し遂に、父道三(どうさん)との対決が避けられなくなる回です。

 

いよいよ斎藤道三(さいとうどうさん)ロスが近づいてきましたが、その前に斎藤道三には何名の子供がいたのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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斎藤道三は8男7女の子だくさん

鎧兜姿の斎藤道三

 

大河ドラマでは、そんな雰囲気は見えませんが、史実の斎藤道三は8男7女15名の子供に恵まれた子だくさんだったようです。

 

一方で、道三の妻については、帰蝶(きちょう)の生母である小見(おみ)の方と斎藤高政の生母である深芳野(みよしの)しか知られていません。もちろん、この二人の妻の間に出来た子供である可能性もありますが、実際にはもっと(めかけ)がいたのかも知れませんね。いずれにせよ、ここでは、道三の息子と娘について紹介してみます。

 

斎藤道三を殺した下克上の義龍

斎藤道三に対して不満を抱く息子の斎藤義龍

 

斎藤高政(さいとうたかまさ)・・・斎藤道三の嫡男で、斎藤義龍という名前が有名です。側室の深芳野の子であり、家督を継いだ後に道三が異母弟の孫四郎、喜平次を偏愛する事に猜疑心を持ち、二人の弟を殺害して挙兵し、長良川で父、道三を敗死させ実力で美濃一国を手中に収めます。

軍議(日本史)モブb

 

ドラマでは、嫉妬(しっと)マンでファザコン、無能イメージですが、実際には国衆の離反を招いた道三の独断専行を反省して、国衆の意見を取り入れる合議制にしたり、室町幕府に近づいてその権威を利用して威信を高めたり、貫高(かんだか)により国衆の動員兵力を規定するなど斎藤氏の戦国大名化に一定の貢献をした有能な人でしたが、短命に終わりました。

 

異母兄に殺害された不運な兄弟

 

斎藤龍重(さいとうたつしげ)・・・通称孫四郎(まごしろう)左京亮(さきょうのすけ)、道三の次男で母は小見の方とも、深芳野とも伝わります。

 

信長公記_織田信長_書類

 

信長公記によると、弟の喜平次とともに(おご)りたかぶり長兄の高政を侮る振る舞いがあったようで、それに道三の寵愛も加わり廃嫡の危機を感じた高政に稲葉山城の奥の間に誘い出されて高政の寵臣、日根野備中守弘就(ひねのびっちゅうのかみひろなり)に殺害されました。

 

斎藤龍定(さいとうたつさだ)・・・通称喜平次。道三の三男で母は小見の方とも深芳野とも伝わります。

父の斎藤道三に可愛がられ、一色兵衛大輔(いっしきひょうえだいゆう)を名乗り、次第に増長して兄の高政を侮るようになり、孫四郎と共に稲葉山城の奥で日根野備中守弘就に殺害されます。

内容に納得がいかないkawauso様

 

二人とも、増長した為に高政に疎まれ殺害されたという説明ですが、一方では、道三と高政、喜平次、孫四郎は稲葉山城に同居していたという話もあり、そんな近しい所にいていかに異母兄とはいえ、侮る気持ちが出るのでしょうか?

 

織田信長についた道三の息子

織田信長

 

斎藤利堯(さいとうとしたか)・・・斎藤道三の子で、母は深芳野。稲葉良通(いなばよしみち)の甥にあたります。

永禄年間に織田信長に降り、加治田城(かじたじょう)を継いだ実弟の斎藤利治(さいとうとしはる)の要請で城代になり、天正3年には美濃国方県郡福光郷一円を知行として与えられます。

 

織田信忠が家督を継ぐと、斎藤利治と共にその家臣となり美濃斎藤氏重臣として活動します。本能寺の変では岐阜城にいましたが、混乱する美濃で中立を保ち、羽柴秀吉(はしばひでよし)明智光秀(あけちみつひで)を討つと、国衆の人質を連れて秀吉に帰順しました。

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

清須会議で信孝に美濃が与えられると、その老臣になり加治田城の城主となり、加治田・兼山合戦では森長可(もりながよし)軍を撃退しています。それから間もなく亡くなったそうです。

 

斎藤龍興

 

斎藤利治(さいとうとしはる)・・・幼名新五郎で天文10年頃に斎藤道三の末子として誕生、母は小見の方と言われます。利治の姉は帰蝶であり、信長の義弟なので長良川の戦いの後に身寄りがない利治を助け置き、身近においたので利治は恩義に感じ度々武功を挙げます。

炎上する城a(モブ)

 

永禄8年8月、美濃攻略戦では、佐藤忠能(さとうただよし)らと共に堂洞城(どうぼらじょう)関城(せきじょう)を攻め落とします。

堂洞城攻めの時に、佐藤忠能の子・忠康(ただやす)が討ち死にしたので忠能の養子に入り永禄10年に忠能が隠居すると加治田城主になります。

 

その後、信長の上洛戦で近江六角氏攻めに参陣し、伊勢大河内の戦いにも参加、第一次織田家包囲網では、近江小谷城攻めに参加して、雲雀山城(ひばりやまじょう)を攻撃して町を焼き払い信長より甚だ賞されるなど功績を挙げ、石山合戦にも従軍して稲葉一鉄、中川重政と砦に入って死守します。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

第二次信長包囲網では、足利義昭が籠る槙島城(まきしまじょう)を攻撃、朝倉討伐、小谷城攻めにも従軍し、父の仇である斎藤義龍の息子の斎藤龍興を攻めて戦死させました。天正2年には、伊勢長島一向一揆攻めに参戦して一江口より攻めて鎮圧、さらに武田勝頼の東美濃侵攻を阻止すべく、織田信忠率いる軍に従軍。

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

この時の功績から、天正4年織田信忠が信長から家督を継ぎ美濃と尾張国を得て岐阜城主になると信忠付きの重臣になります。その後も柴田勝家の北国攻めに従い、さらに越中侵攻にも参加して、上杉家の織田家包囲網を崩壊させました。

 

しかし、天正10年、織田信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めを助ける為に京都二条妙覚寺に入る時に本能寺の変に遭遇。信忠と二条新御所に移動して奮戦するものの多勢に無勢で、最後は義兄にあたる斎藤利三に攻められて討ち死にしました。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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