NHK大河ドラマ麒麟がくる第15話「我が父に非ず」では、家督を継いだ斎藤高政が異母弟である斎藤喜平次と孫四郎を稲葉山で殺害し遂に、父道三との対決が避けられなくなる回です。
いよいよ斎藤道三ロスが近づいてきましたが、その前に斎藤道三には何名の子供がいたのでしょうか?
この記事の目次
斎藤道三は8男7女の子だくさん
大河ドラマでは、そんな雰囲気は見えませんが、史実の斎藤道三は8男7女15名の子供に恵まれた子だくさんだったようです。
一方で、道三の妻については、帰蝶の生母である小見の方と斎藤高政の生母である深芳野しか知られていません。もちろん、この二人の妻の間に出来た子供である可能性もありますが、実際にはもっと妾がいたのかも知れませんね。いずれにせよ、ここでは、道三の息子と娘について紹介してみます。
斎藤道三を殺した下克上の義龍
・斎藤高政・・・斎藤道三の嫡男で、斎藤義龍という名前が有名です。側室の深芳野の子であり、家督を継いだ後に道三が異母弟の孫四郎、喜平次を偏愛する事に猜疑心を持ち、二人の弟を殺害して挙兵し、長良川で父、道三を敗死させ実力で美濃一国を手中に収めます。
ドラマでは、嫉妬マンでファザコン、無能イメージですが、実際には国衆の離反を招いた道三の独断専行を反省して、国衆の意見を取り入れる合議制にしたり、室町幕府に近づいてその権威を利用して威信を高めたり、貫高により国衆の動員兵力を規定するなど斎藤氏の戦国大名化に一定の貢献をした有能な人でしたが、短命に終わりました。
異母兄に殺害された不運な兄弟
・斎藤龍重・・・通称孫四郎。左京亮、道三の次男で母は小見の方とも、深芳野とも伝わります。
信長公記によると、弟の喜平次とともに奢りたかぶり長兄の高政を侮る振る舞いがあったようで、それに道三の寵愛も加わり廃嫡の危機を感じた高政に稲葉山城の奥の間に誘い出されて高政の寵臣、日根野備中守弘就に殺害されました。
・斎藤龍定・・・通称喜平次。道三の三男で母は小見の方とも深芳野とも伝わります。
父の斎藤道三に可愛がられ、一色兵衛大輔を名乗り、次第に増長して兄の高政を侮るようになり、孫四郎と共に稲葉山城の奥で日根野備中守弘就に殺害されます。
二人とも、増長した為に高政に疎まれ殺害されたという説明ですが、一方では、道三と高政、喜平次、孫四郎は稲葉山城に同居していたという話もあり、そんな近しい所にいていかに異母兄とはいえ、侮る気持ちが出るのでしょうか?
織田信長についた道三の息子
・斎藤利堯・・・斎藤道三の子で、母は深芳野。稲葉良通の甥にあたります。
永禄年間に織田信長に降り、加治田城を継いだ実弟の斎藤利治の要請で城代になり、天正3年には美濃国方県郡福光郷一円を知行として与えられます。
織田信忠が家督を継ぐと、斎藤利治と共にその家臣となり美濃斎藤氏重臣として活動します。本能寺の変では岐阜城にいましたが、混乱する美濃で中立を保ち、羽柴秀吉が明智光秀を討つと、国衆の人質を連れて秀吉に帰順しました。
清須会議で信孝に美濃が与えられると、その老臣になり加治田城の城主となり、加治田・兼山合戦では森長可軍を撃退しています。それから間もなく亡くなったそうです。
・斎藤利治・・・幼名新五郎で天文10年頃に斎藤道三の末子として誕生、母は小見の方と言われます。利治の姉は帰蝶であり、信長の義弟なので長良川の戦いの後に身寄りがない利治を助け置き、身近においたので利治は恩義に感じ度々武功を挙げます。
永禄8年8月、美濃攻略戦では、佐藤忠能らと共に堂洞城、関城を攻め落とします。
堂洞城攻めの時に、佐藤忠能の子・忠康が討ち死にしたので忠能の養子に入り永禄10年に忠能が隠居すると加治田城主になります。
その後、信長の上洛戦で近江六角氏攻めに参陣し、伊勢大河内の戦いにも参加、第一次織田家包囲網では、近江小谷城攻めに参加して、雲雀山城を攻撃して町を焼き払い信長より甚だ賞されるなど功績を挙げ、石山合戦にも従軍して稲葉一鉄、中川重政と砦に入って死守します。
第二次信長包囲網では、足利義昭が籠る槙島城を攻撃、朝倉討伐、小谷城攻めにも従軍し、父の仇である斎藤義龍の息子の斎藤龍興を攻めて戦死させました。天正2年には、伊勢長島一向一揆攻めに参戦して一江口より攻めて鎮圧、さらに武田勝頼の東美濃侵攻を阻止すべく、織田信忠率いる軍に従軍。
この時の功績から、天正4年織田信忠が信長から家督を継ぎ美濃と尾張国を得て岐阜城主になると信忠付きの重臣になります。その後も柴田勝家の北国攻めに従い、さらに越中侵攻にも参加して、上杉家の織田家包囲網を崩壊させました。
しかし、天正10年、織田信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めを助ける為に京都二条妙覚寺に入る時に本能寺の変に遭遇。信忠と二条新御所に移動して奮戦するものの多勢に無勢で、最後は義兄にあたる斎藤利三に攻められて討ち死にしました。
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